「幻の鉄道」の全容明らかに―。かつて兵庫県丹波市の柏原駅から同県朝来市の梁瀬駅までを鉄道で結ぶ計画があった私鉄「柏梁鐡道」の、国への線路敷設免許願を、元JR西日本運転士の平出護さん(70)=丹波市=が保管している。1923年(大正12)に作成された免許願には、発起人として地元の名士ら51人の名が記され、建設費の概算や営業収支表、利用乗客数の見込み、同鐡道を運営する株式会社の定款、路線図なども付けられている。詳細な計画がありながらも実現しなかった「幻の鉄道」の姿が分かるとともに、発起人には、既存の駅があり鉄道の恩恵を受けていた地域の有力者の名も連ねていることから、氷上郡(現丹波市)全体の活性化を願った一大事業だったことがうかがえる。
4つの停車場配置、高低差少なく計算されたルート
免許願は時の鉄道大臣・大木遠吉に宛てたもので、「控え」の一つと考えられる。平出さんが所有しているのは「官設鉄道福知山線」(元阪鶴鉄道、現JR福知山線)の柏原駅から、丹波市青垣町に設置予定だった「柏梁鐡道」の佐治停車場間に関する一連の史料で、2005年に友人から譲り受けた。平出さんは氷上郷土史研究会に所属し、同会メンバーの山内順子さんと高見秀樹さんらに声をかけ、柏梁鐡道の全容を知ろうと、ともに調査に乗り出した。同鐡道に関する文献を調べたり、停車場ができるはずだった現場に足を運ぶなどした。
縦35センチ×横1メートルほどの路線図によると、同鐡道は、柏原駅から福知山線の線路と並行するように敷設され、途中で西に向かう。国道176号沿い付近を通過しながら、現在の稲継交差点付近に設置された「稲継停車場」に至る。そこから同市役所本庁面に走り、加古川(佐治川)を越え、中央小学校近くの「成松停車場」に到着する。
さらに伸びた線路は甲賀山の東側をかすめながら、モミジの名所として名高い円通寺東側の「幸世停車場」へ。その後は、現在の青垣住民センター付近の「佐治停車場」まで線路が伸びる。
ルートの高低差を示す図面もあり、元運転士の平出さんは「高低差が少ない。列車が走っても燃料が少なくてすむよう、よく考えられている」と感心する。
発起人は時の町長ら、建設費は64億?
発起人の筆頭には、現役の柏原町長だった土田文次の名が記されている。最後尾には、日本女子大学校の校長を務めた井上秀の夫で、マレー半島でゴム栽培を手掛けるなど世界を股にかけて活躍した井上雅二の名も見られる。
また、当時すでに福知山線の駅があった地域の名士の名も記されており、氷上郡全域にわたる人物が敷設に向け動いていたことが分かる。朝来市側も3人が発起人になっている。
建設費の概算書によると、総額は100万円。山内さんによると、現在の金額に直すと64億円ほどになるという。機関車2車両に加え、5車両の客車、20車両の貨車を購入するとあり、物流もかなり重視する方針がうかがえる。貨車では木材や炭、繭、牛、米などを運ぶとの記述もあり、沿線の産業も分かる。
農家が反対?関東大震災の影響?頓挫の理由は不明
土田文次らは大正12年2月22日、当時は台湾総督だった田健治郎の東京の自宅を訪ね、同鐡道の実現に向けて請願したことが、健治郎が残した日記に記されている(田健治郎日記)。健治郎は、阪鶴鉄道の実現に尽力した田艇吉の弟。また、「柏原町志」によると、大正12年5月5日には土田文次らを含む「柏梁鉄道期成同盟委員」が、山陰線を視察した大木大臣に陳情したと記されている。
「青垣町誌」には、同鐡道の発起人にも名を連ねる県会議員が敷設に力を注いだものの、線路が敷かれることによって農地がつぶれ、農家が困るなどの理由で反対する声もあったことから断念したとの記述がみられる。朝来市側の「山東町誌」には、同鐡道が「幻」に終わったことについて、「条件不備で敷設の対象にならなかった」「(同年に発生した)関東大震災に災いされた」「政争の犠牲となった」など諸説あることを紹介している。また、佐治停車場以北の簡略路線図が掲載されており、梁瀬駅(山陰線)に到達する計画だったことが分かる。
平出さんは「もし柏梁鐡道が実現していたら、丹波市の発展も今とは違った形になっただろう。路線図面や高低差が分かる図面を見ると、当時の測量技術の高さが分かる」と話す。高見さんは「世のため人のために動いた人が多かったことが分かる。現在は北近畿豊岡自動車道がある。鉄道と車の違いはあるが、丹波市と但馬方面を結ぶ交通ができ、先人たちの夢がかなったのでは」と目を細める。山内さんは「ここまで具体的な計画が、なぜ頓挫したのか謎は残る。朝来市の関係者とも連携し、調査を進められれば」と話している。