終戦から75年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は谷昭夫さん(90)=丹波篠山市下原山。
昭夫さんは1930年、六男としてこの世に生を授かった。「大好きだった」2人の兄の尊い命を戦争で失った。日中戦争が勃発した37年、同市の福住小学校西野々分校に入学。卒業後の43年に現在の篠山鳳鳴高校の前身、兵庫県立鳳鳴中学校の門をくぐった。
「優しくて、良い兄貴だった」という長男の茂さん(享年28歳)は、パプアニューギニア・ブーゲンビル自治州のブーゲンビル島で戦死した。東京高等師範学校(現・筑波大)に在学中、召集がかかったという。当時、丹波篠山市にあった歩兵第70連隊に入隊後、幹部候補生に志願した。昭夫さんは、「『お前は大学に入っとったんやから』と仲間から背中を押されたんやと思う」と推測する。将校となった茂さんはその後、500人もの隊員を率いる中隊長になった。
終戦後、茂さんと共に戦った四国出身の隊員が、「病気と食料の戦いだった。名誉の戦死でした」と篠山の自宅まで伝えに来た。「兄は兵隊になるつもりなんてなかったんやろうけどなぁ」と涙ぐむ。
少年航空兵だった五男の頼夫さん(同18歳)は、44年に玉砕したテニアン島で戦死した。「魚釣りが上手だった。夜によく2人で、家の近くを流れる川にウナギを取りに行った」という。役場から自宅に届く戦死の公報「死亡告知書」で、頼夫さんの死を知った。
2人の兄が戦地に赴き、「自分もいつかは戦場に行くかもしれない」と腹をくくっていた。
昭夫さんは45年4月、戦闘機のジェットエンジンの主要部分の製造を手掛けていた工場「川西航空機」(現在の阪神競馬場)へ動員され、約2カ月間働いた。1000人を超える工員と、男女の学徒が働いており、午前8時から午後6時ごろまで汗を流す日々を送った。「当時は何の部品を作っているのか分からないまま作業をしていた。今になって思えば旋盤の加工や研磨作業をやらされていたと思う」
昼食は茶碗1杯分のご飯のみ。腹を空かせた工員から食券を渡すよう脅されたこともあった。風呂には4日に1回ほどしか入れず、頭にはシラミがわいた。「腹は減るわ、体は汚れるわで踏んだり蹴ったりだったが、『国のため、勝つまでは』と思っていた。しんどいと感じたことはなかった」
アメリカ軍のB29から「2日おきに爆弾を落とす」といった旨のビラがまかれ、その言葉通りに爆撃されるようになった。工場近くから見える尼崎の街が真っ黒になり、太陽は赤く燃えていた。
空襲警報が鳴ると、工場近くの川の中へ一目散に逃げ込んだ。中には、警報を良いことに工場そばの畑へ駆け込み、イチゴやイチジクを盗み食いする工員がいた。
同年6月、「これ以上、ここにいるのは危ない」と、引率の将校が工場へ提言し、丹波篠山から動員されていた約100人の学徒は3班に分かれて列車で帰郷することになった。最後となった昭夫さんの班は15日に帰郷。列車は、空襲から逃げている人や頭から血を流しているけが人などで埋まっており、「足の踏み場もないほどだった」。昭夫さんらが三田市に着いたころ、川西航空機の工場が空襲で半焼したことを知った。今でも「助かったなぁ」と当時のことを思い出すことがある。
帰郷後は約2カ月間、「芦森工業」(丹波篠山市西町)の工場で、寮に住み込みながら航空機の修理作業を担った。8月15日、工場内のラジオに玉音放送が流れた。「雑音だらけで何を言っているのか分からなかった」が、工場内の雰囲気や工員の会話で日本が敗戦したことを知った。
学校の授業が再開すると、「『負けると思っていた』とすぐに手のひらを返す先生がいた。『何を言ってるねん』と腹が立った」ことを覚えている。
昭夫さんは「ほんまに大変な時代やったなぁ」と空を見上げる。「今、『戦争はすべきではなかった』と言う人がいる。けれど、そんなことは誰もが分かっている。当時は『戦争をやめたい』と言えるような時代ではなかった。なぜ日本が戦争に向かったのかを知らないといけない。同じ間違いを犯さないためには、まず歴史を学ばないと」