兵庫県丹波篠山市城北地区の寺内集落を歩いていると不思議な光景に出くわした。大賣(おおひるめ)神社の境内にある稲荷神社の拝殿にたくさんの麦わら帽子が垂れ下がっている。目を凝らすと帽子の陰から鈴が顔を見せており、鈴の緒に結び付けてあるよう。いったい、なぜ稲荷神社に麦わら帽子があるのか? あの人気漫画の主人公と関係があるわけではなく、背景には数百年続く人々の「健康」への祈りがあった。
大賣神社は平安時代に編さんされた全国の神社一覧「延喜式神名帳」に掲載された「式内社」。11代・垂仁(すいにん)天皇の皇女が天磐船(あまのいわふね)に乗って当地を訪れ、サカキを植え、しめ縄を張り、皇祖神の天照大神をまつったことが始まりと伝わる。
戦国時代には同市内にある八上城主・波多野秀治が祈願所にして崇敬し、その後も歴代の篠山藩主が厚く信仰した、歴史ある古社だ。
おでき平癒で「崇敬せられ」
境内にあるくだんの稲荷の名前は、「笠鷺(かささぎ)稲荷神社」。鳥居前に立つ看板には、家内安全・商売繁盛に加えて、「おでき解除の祭神として広く県下一円に崇敬せられている」とある。
「おでき」は皮膚などに生じる「できもの」のこと。なぜ、この稲荷がおできにご利益があるのか。そして、麦わら帽子の意味は何なのか。大賣神社の荻坂貢丈宮司(58)に尋ねた。
「神社の名前にある『笠』が瘡蓋(かさぶた=傷口などにできる組織)に転じ、できものを封じると信じられています。そして、平癒を祈願し、ご利益があった際には笠を奉納する風習になっているのです」
なるほどと思いながらも、今かかっているのは麦わら帽子。
「昔は笠でした。私もかかっているのを見たことがある。それが、笠を使うことが少なくなったことで、麦わら帽子で代用されているようです」
ということは、この麦わら帽子はご利益があった証拠になる。
今でも気が付くと麦わら帽子が増えていることがあるそうで、市内はもちろん、口コミで遠くからやってくる人もあるという。
「梅毒に効く」大変な流行神
笠鷺稲荷についての史料は少なく、不明な点も多い。しかし篠山藩4代藩主・松平康信が祈願所にしたと伝わることから、少なくとも康信が創建したか、藩主となった慶安2年(1649)あたりにはすでに存在していたことになる。
笠の奉納がいつから始まったのかは分からないが、興味深い資料がある。
昭和33年に発行された「多紀郷土史考」に、「一時は大変な流行神様であった」とあり、「瘡疳(そうかん・正しくは疳瘡=梅毒による陰部のただれ)によくきくというので梅毒患者は元より、子供の出来物等に願掛けすれば直ぐ平癒するという」と記述がある。
宮司も同様の伝承を伝え聞いており、梅毒やがんなど“できもの”関連全般にご利益があるとされる。
「流行り病だった天然痘も『疱瘡(ほうそう)』と言われ、『瘡』の字が入っている。おそらくですが、創建された当時から疫病を鎮めるためのものだったのではないでしょうか」と話す。神社の背後にそびえ、源義経の伝説も残る山の名が「笛吹山」であることから、「吹き出物」にご利益があると聞いたこともあるという。
同書にはほかに、「癒ったらお礼祭りに笠を納めるというので、昔は拝殿に笠が一杯つまっていたものである」とあり、やはり以前は笠だったようだ。
大阪がルーツか「松平」がつなぐ?
ちなみに同書では、「ところで勧請したのは江戸の笠守稲荷であると思う」と推測し、「それが瘡守りに思い違えられて瘡疳の神になったなどは面白い変化」としている。
ここで出てくる「江戸の笠守稲荷」は、大阪府高槻市にある「笠森稲荷神社」から勧請されたものと考えられる。
この笠森稲荷も丹波篠山の笠鷺稲荷と同様、「笠=瘡」から、梅毒平癒にご利益があるとされる。また松平康信が篠山藩に移封される前に高槻藩主を務めていたことから、ルーツは笠森稲荷で、康信が高槻から勧請した可能性もある。
笠森稲荷には、土の団子を奉納する風習があり、笠を奉納するのは丹波篠山独自のようだ。
荻坂宮司は、「天然痘や梅毒などは、かつては命にかかわる病。新型コロナウイルスがまん延している今、昔の人が神頼みしたい気持ちもよく分かります」と言い、「みなさんの心のよりどころとして、これからも社殿を守っていきたい」と話している。