日中戦争の激戦の一つ、「衡陽(しょうよう)攻略戦」で、敵弾に首を撃ち抜かれながら九死に一生を得て復員し、今月1日に99歳で死去した故・足立藤四郎さん(兵庫県丹波市氷上町)が提供した角膜が、10日までに移植手術に使われた。「命のリレー」のバトンを患者2人に渡せた遺族は、「父の強い願い。役に立てて喜んでいると思います。本当に良かった」と胸をなで下ろしている。
角膜移植に役立ててもらおうと、両眼を献眼した兵庫アイバンク(神戸市)から、長女の林和枝さん(丹波市)に連絡があった。
足立さんが遺した「眼球提供登録票」の登録日は「平成5年6月1日」。大阪バンクから兵庫バンクが分離独立した日で、足立さんは、それ以前から大阪バンクに登録していた。
「死んだら献眼する。目が見えない人が、少しでも見えるようになったらいい」と、何十年も前の元気なころから口にしていたという。折に触れ家族に宛てる手紙にも必ず献眼するようにとアイバンクの電話番号を書き残していた。
父の最期をみとった林さんは、同バンクに断りの電話を入れた。遺体を傷つけたくなかったからだ。
しかし、「ずっと前から父が言い続けていたこと。望みをかなえた方が、父は喜ぶのでは」と思い直し、献眼を申し出た。約1時間半後に神戸市から移植コーディネーターと眼科医が訪れた。林さんは摘出承諾書にサインし、眼科疾患の病歴などの聞き取りに応じた。眼球摘出手術をし、義眼を入れた顔は手術前と変わらず、「きれいな顔や」と遺族は安どしたという。
「戦地での体験が根底にあるんだと思います。戦友が大勢亡くなり、自分も撃たれ、1年近く入院する大けがを負いながら助かった。誰かを助けたい強い気持ちがあったんだと思います。両目の角膜とも使ってもらえ、父の遺志が実った。娘がほめるのもおかしいですが、立派な父です」と、しのんだ。
兵庫アイバンクの渡邊和誉コーディネーターは、「角膜の状態は年齢に関係がなく、過去には102歳の方もあった。以前から足立さんは提供のご意志があり、林さんには葛藤の末、『私の責任で』とまで言っていただいた。身内が亡くなると、家族は混乱しがち。生前からバンク登録者と家族でよく話し合って、提供者と遺族が後悔しない決断をしてもらえれば」と話している。
眼の病気は、iPS細胞を使った再生医療の研究が盛んだが、現在も角膜移植が標準治療。「すぐにでも手術を」と待つ患者は県内に常時130―140人いるが、昨年度の提供者は16人にとどまる。長年の積み重ねと高い技術があるものの、提供が乏しいために移植が進んでいない現実がある。