落城前に「姫」ら落ち延び計画? 「赤鬼」の引き際プランとは 懐妊の愛妾と共に

2020.12.19
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荻野(赤井)直正にゆかりがある女性について書かれた文書

明智光秀による丹波国平定戦「丹波攻め」により、兵庫県丹波市の黒井城が落城する際、「丹波の赤鬼」の異名を持つ同城主・荻野(赤井)悪右衛門直正の娘「おりへ」と愛妾(愛人の意)「お高」が同市春日町池尾に落ち延びたとする内容が記載された「明照寺文書」が、同寺(同町池尾)に保管されている。文書自体は同寺の歴代住職の事績をつづった内容で、同市文化財保護審議会委員の山内順子さんが初めて全文を現代語訳。山内さんによると、戦国期のことを書いた文書に女性の名が登場することは珍しく、有事の際に2人を同城から逃がす「計画」があったこともうかがえるという。

山内さんによると、これまでから同文書の存在は確認されており、その一部を引用したとみられる記述は見られるものの、全体を通じた現代語訳は初という。同寺総代の勝野明さん(84)が訳を依頼した。

寺の由緒から始まる内容で、1759年(宝暦9)に住職だった人物が、過去の住職の事績を紹介する記述スタイルを取る。同住職以降も後の住職によって書き継がれ、最後は1865年(慶応元)に15代が住職になる許可を得たという記述で終わっている。

直正にゆかりがある女性が登場するのは、「宗清」という名の住職の代。宗清は、はじめは僧ではなく勝野助太夫という名で、「哥道月城」(黒井城とみられる)に在城し、年貢を取り立てる代官役を務めていたが、のちに剃髪して宗清と称したと記載がある。

今は明照寺の境内にある「おりへ」「お高」の塚=2020年12月14日午後2時3分、兵庫県丹波市春日町池尾で

哥道月城の落城に際し、家老の赤井初太夫という人物による計画で、おりへと、直正に奉公していた懐妊中の女中、お高が同町池尾に落ち延びたとある。史実として、直正が亡くなったのは1578年(天正6)3月で、黒井城の落城は翌79年(同7)8月。山内さんは「直正が亡くなった時期と、お高が妊娠中であることを合わせて考えると、落ち延びたのは落城より数カ月前と考えられる。つまり、直正が亡くなった時期から、黒井城側は落城を念頭に置いた引き際のプランを考えていたのではないか」と話す。

おりへは、落ち延びた後、赤井家に伝わる「神妙の方」という薬の秘方を池尾に伝えたとある。山内さんは「直正は、おりへに『物』の他にも『知識』を持たせたとも受けとれる。知識があれば生きていける。おりへの将来を案じるとともに、慈しんでいたということだろう」と推測する。

後にお高は男子を出産したが、亡くなった直正や黒井城の情勢などに配慮して宗清の実子とし、宗清の後任の住職になったとある。

女性2人が落ち延びた際、城主所持の弓のほか、茶壷、茶臼、鍋を伝えたと記され、ほかにも茶の湯の道具や鞍もあったが、紛失したとある。山内さんは「紛失したということも正直に書いている。自分たちに不利益な情報も正確に記載しようという、文章に対しての誠実な態度がうかがえる。その点からも、文書全体の記述も信頼できるのではないか」と話す。

地元では、おりへは「織姫」として親しまれている。勝野さんは「お高が生んだ子が、のちに住職になっている。2人の女性が落ち延びたことで、その後も寺が続くことになったと思うと感慨深い」と話している。

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