この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。
戦国時代、丹波国氷上郡(現・兵庫県丹波市)から但馬・丹後まで勢力を振るった赤井氏は、清和源氏頼季流と伝えられる。
系図によれば、源頼季の孫井上(葦田)五郎家光は保元三年(1158)、故あって丹波国芦田庄へ流された。文治元年(1185)、丹波半国の押領使に任じられた家光の子・道家が丹波に一定の地歩を固め、道家五世の孫為家が氷上郡新郷の赤井野を分領されて赤井を名乗り、後屋城を本拠とした。
為家の跡は嫡男の家茂が継ぎ、二男の重家は朝日村に移って荻野氏を名乗ったという。以上の所伝から、芦田・赤井・荻野の三氏は一族であるという説が流布している。
家茂の孫家清は足利尊氏に従い、多々良浜合戦において敵に奪われた尊氏の「二つ引両」の旗を奪還し、その旗を与えられた。以後、「雁金」紋の上に「二つ引両」を描いた旗を用いるようになったと伝える。
とはいうが、同族という芦田・荻野氏らが鎌倉末期より史上に名が現れるのに対して、赤井氏の動向は系図以外の確かな史料からは知られない。
赤井氏が歴史の表舞台に登場するのは、大永六年(1526)、波多野元清が細川高国と戦った「神尾山の戦い」においてである。
新郷の赤井五郎(忠家)が波多野方に後詰して出陣、細川勢を破ったことが『言継卿記』に記されている。以後、赤井氏の名は諸史料上に現れる。
しかし、永禄十三年(1570)に織田信長が赤井五郎に与えた朱印状をはじめ、赤井忠家宛ての宝鏡寺某奉書、徳川家康が赤井時直に送った書状など宛名はいずれも芦田と書かれている。中世の丹波において、芦田は由緒深い名字と認識され、赤井氏自身も芦田名字の方を重くみていたのだろう。
さて、天文二年(1533)、晴元派の赤井忠家は、高国の弟晴国を奉じた波多野秀忠と対立、母坪城の戦いで戦死。敗れた嫡男の時家ら赤井一族は丹波から播磨へ没落した(諸説あるがここでは既存の説に拠った)。
その後、丹波に復帰した時家は、二男才丸(のちの直正)を黒井城主荻野秋清の養子に送り込み、荻野氏との関係を深めた。天文二十三年正月二日、直正は反秋清派の荻野一族と結んで秋清を殺害、黒井城主に収まると荻野悪右衛門と名乗った。かくして、荻野氏を傘下に置いた赤井時家は丹波の有力国衆へと台頭した。
後屋城 いま、城址には白山神社が鎮座し、植林によって昼なお暗い所となっている。しかし、城址を歩くと土塁・堀の跡、区画された曲輪址などが残り、赤井一族や家臣らが戦国時代を生きた名残が明確に刻まれている。
田中豊茂(たなか・とよしげ) ウェブサイト「家紋World」主宰。日本家紋研究会理事。著書に「信濃中世武家伝」(信濃毎日新聞社刊)。ボランティアガイドや家紋講座の講師などを務め、中世史のおもしろさを伝える活動に取り組んでいる。