終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は和久忠一さん(86)=兵庫県丹波市市島町。
1945年(昭和20)、同町の三輪国民学校の3年生だった。8月14日の昼過ぎ、近くの川での地区水泳に向かうため、学校近くの村役場の横を通り過ぎると、助役が泣きながら電話で「明日の正午、重大発表があるのですね」と言っていた。子どもながらに異様な雰囲気を感じたが、よもや日本が敗戦するとは思いもしなかった。
当時、食糧などは配給制だった。家は地主で米俵があり、「炊いてよ」とせがんだが、「みんな同じ生活をしているんだから」と親に諭された。近くには硅石の採掘場があり、作業員に米を分けていたようだった。
44年には、大型爆撃機「B―29」が編隊を組み、悠々と高高度を飛ぶ姿を何度も見た。空襲警報が鳴ると、低学年は近くの藪に逃げ込むことになっていた。「爆撃されたらみんな死ぬわ」と言うと、教師に殴られた。
助役が泣いているのを見た翌日、8月15日の玉音放送は、学校の運動場で聞いた。家にもラジオがあったが、友人に会えるかもしれないと学校へ行った。50人ほどがいたが、大人は大声を上げて泣いていた。大人が「もうおしまいだ」と言っていたことを覚えている。
46年のことだったと記憶している。連合軍の兵士2人がジープで学校に来た。当時あった第2運動場の倉庫に銃剣がしまわれており、兵士が撤収した。兵士はキャンディと、野球のボールをくれた。「これからの時代は協調なんかなぁと感じた」と振り返る。
終戦の前年に出征した17歳年上の長兄は、フィリピンで戦死。終戦翌年、悲報を聞いたときは、表現できない寂しさがあった。兄嫁は泣き崩れ、「姉さんはどうなるのだろう」「この家はどうなるのだろう」と、不安しかなかった。
今を生きる子どもたちには、「人は優しく、強くなければ生きられない。人に優しく、自分に強く生きてほしい」と優しいまなざしを向ける。