言われるがままの戦時 今の日常が幸せ 戦後76年―語り継ぐ戦争の記憶

2021.08.27
地域

兄の佐一郎さんや、宿泊していた歩兵たちの姿に思いをはせながら、戦時中の体験を振り返る正代さん=2021年7月25日午後5時40分、兵庫県宝塚市で

終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は古野正代さん(93)=兵庫県宝塚市(同県丹波篠山市東古佐出身)。

「戦争に行けと言われたら行くし、挺身隊として働けと言われれば働くしかない。言われるがままの時代だった」。正代さんは戦時をこう表現する。

5人きょうだいの長女。裕福な家庭ではなかった。1934年(昭和9)に修徳尋常高等小学校に入学。その後、篠山高等女学校への進学を希望したが、「貧乏な家の子が行ったらあかん。笑われる」と親に言われ、進学は諦めた。涙がこぼれた。

かつて、丹波篠山市内には、「丹波の鬼」と呼ばれた陸軍歩兵連隊の駐屯地があった。正代さんの家では、歩兵3人ほどの宿泊を受け入れていた。朝と夕方の食事は母と祖母が用意した。正代さんが食事を持っていくと、「こぼしたらあかんで」「ゆっくり置き」と、“鬼”の歩兵が優しく声を掛けてくれた。

毎朝5時になると、「出てくる敵は皆々殺せ」のフレーズがある「突撃ラッパ」のラッパ音が流れてきた。それが、起床の合図だった。正代さんは「自然と戦争に巻き込まれている気分だった」と振り返る。

16歳のとき、「東洋紡績」の丹波篠山市内の分工場で、挺身隊として従事することを余儀なくされた。約1年間、兵隊の服を縫製する作業に追われた。同じころ、5つ離れた長兄・佐一郎さんの入隊が決まった。村中の人が公民館に集まり、兄の〝門出〟を祝った。幸い、兄が戦地に行く前に終戦。兄が広島から帰郷することが決まると、「親は今まで見たことのないぐらいの喜びようだった。祝ってはいても内心、兵隊には絶対に行かせたくなかったんだと思う」。

現在は愛息の弘之さん(69)と宝塚市内で二人暮らし。今の楽しみは、テレビで大相撲を観戦し、決まり手をノートに記録することと、弘之さんが買ってきてくれるアイスキャンデーを食べること。正代さんは「何気ない日常が幸せです」と顔をほころばせた。

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