兵庫県丹波篠山市の石田家に伝わり、市に寄贈された約4100点という膨大な史料「石田家文書」。その中に、幕末の元治元年(1864)に起きた「禁門の変」に関する史料がある。当時の庄屋で、篠山藩の住民代表の役職「郡取締役」を務めていた庄屋の石田又左衛門(当時推定40―50代)が、藩主に従って京都に赴き、事変に遭遇した際の日記だ。当時の状況が事細かに書かれているほか、時折、又左衛門の感想も盛り込まれるなど、現代風にいうと「ルポルタージュ」(現地からの報告)ともいえる。
丹波新聞では市教育委員会の協力を得て、日記を現代語訳してもらった上で、さらに分かりやすいよう、記者が注釈をつけながら文章化。158年前の夏、「庄屋さん」が見た幕末の一大事件を追う。
ルポに入る前に、「禁門の変」とは何だったのかを振り返る。
時は幕末。黒船来航(1853年)の後、幕府の開国施策に対する不安が増す中、天皇を政治の中心に戻す「尊王」と、外国を追い払う「攘夷」が結びついた「尊王攘夷思想」が広がっていた。
中でも過激な運動を展開したのが長州藩(現・山口県)。1863年には、下関を通過していた外国船を砲撃し、「下関戦争」を起こす。この戦で外国に敗れた長州は現状の幕府の下での攘夷が不可能と考え、倒幕運動を推し進めていく。
しかし、外国と穏便に進めたい幕府は、長州の過激な行動に激怒。同年、薩摩藩(現・鹿児島県)や会津藩(現・福島県会津若松市など)が中心となり、朝廷内から過激派を追い出す(八月十八日の政変)。
その後、京都に潜伏していた尊王攘夷派が新選組によって襲われたこと(池田屋事件)に、今度は長州が激怒。1864年、朝廷に対して「地位回復」を嘆願するため、京都出兵を計画した。
動きを察知した幕府側は、不測の事態に備え、京都に兵を集めだす。この幕府の呼び掛けに応じ、篠山藩も京都に向かうことになった。
では以下から、ルポへ。日付はすべて旧暦。
6月25日、「長州藩が次々上京してくるので、京都を警固せよ」と知らせがあり、篠山藩も26日に京都へ出発することになった。
一番手として向かった吉原三郎左衛門様は、鷹ヶ峯(現・京都市北区)の警固所に出張された。その後、長州の人々が次々と洛外に押し寄せてきたので、御殿様(篠山藩主・青山忠敏)ご自身も「早々に御出陣を」と知らせが来たため、28日午前5時、武士400人、猟師100人、郷夫(半農半士)1000人の計1500人をそろえて篠山城を出発された。
地域の取りまとめ役である私もお供を仰せつかり、猟師50人をまとめて上京したのである。
京都への道だが、篠山藩の飛び地だった桑田郡周山(現・京都市右京区京北地区)へ迂回することになった。あちこちで警備が厳重となっていたため、入京しようにも通過が難しかったからだ。
篠山城を出発し、休憩しながら御本陣(公的な旅宿や殿様のいる場所)がある福住村(丹波篠山市)に着いたのは、28日午後10時。御殿様は弁当を食べて体を休められた。
翌29日午前5時に出発。午前10時前に園部(現・京都府南丹市)を通過し、午後2時に殿田(同)で弁当を食べた。午後5時に出発し、周山の御本陣に着いたのは日付も変わった午前3時だった。
ここでは下宿の手配ができておらず、郷夫たちはみな大変困り、野宿同様の一夜となった。
翌7月1日、周山の関所周辺を見回り、午後8時にいよいよ京都に向けて出発。翌日午前10時に、上品蓮台寺(現・京都市北区)という寺に着いた。
先に出発していた篠山藩の一番手の皆さんは、長州藩が次々と嵯峨(現・京都市右京区)周辺に集まりつつあったので、全員が防具を着用し、大砲4挺を荷車で引いて、西院村(同)の陣所に向かったらしい。
ほかの大名の方々も、同じように三条通りから二条通りの口々で警固についており、どこも厳重だったため、京都の人々はとても驚いているそうだ。
7月3日、御殿様は西院村の陣所を見た後、六角烏丸にある篠山藩の京屋敷(現・京都市中京区)で弁当を食べ、午後5時ごろに上品蓮台寺に帰ってこられた。4日から7日までは滞留され、8日午前10時、京屋敷に移られた。
ここに7月19日までいたわけだが、この間はとても穏やかで、ちょうどお盆ということもあり、六角堂(篠山藩京屋敷近くにある有名なお寺)へたくさんの参詣者が訪れ、大変なにぎわいだった。
このころ聞いたところでは、長州藩の陣所は京の南方、山崎(現・京都府大山崎町)にある宝積寺に増田右衛門助・約500人、天王山(同)に福原越後・約500人、嵯峨(現・京都市右京区)の天龍寺に国司信濃・約700人とのこと。ほかにも嵐山から松尾山にかけて人数は不明だが、陣が3、4カ所あり、夜になるとかがり火が見えた。
山に見える陣所はいずれも旗を立て、陣幕を張るものものしさだが、「ただ願いの返答を承りたいだけ」という噂だ。
この段階での篠山藩の配置は、西院村(現・京都市右京区)の高山寺という寺に吉原三郎左衛門様(425人)、六角烏丸の篠山藩京屋敷(現・京都市中京区)に御殿様(1450人)。各大名様も各地に配置され、厳重な警戒となっている。
ここで私の耳に入ってきた噂を記しておく。
①粟生(現・京都府長岡京市)の光明寺に長州藩士が大勢やってきて、「寺を貸してほしい」と頼んだため、寺は「上に聞いてから返答します」とやんわり断ったが、「それはご丁寧に」と言いながら1000人程度が寺に入った。そこから各地に出発し、警固所で問い掛けられると、ただただ「長州です」とだけ答えて天龍寺に向かい、日々、武器を荷車に積んで光明寺に運び込んでいるらしい。
②真田様(信濃松代藩主、現・長野県長野市)の御家来(佐久間象山のことか?)が馬に乗って北の辺りを通行していると、何者かに切り殺されたらしい。
③江戸では、筑波山(現・茨城県つくば市)の浪人たちが横浜に押し寄せ、外国人を打ち払い始めたので、収めたらしい(天狗党の乱)。
④四条寺町(現・京都市下京区)辺りで酒に酔った3人の侍が1人の侍と口論を始め、3人のうち2人が切り殺され、1人は逃げ去った。
⑤会津の警固所前を長州藩士2人が通行していると、捕まりそうになった。1人は長州藩の陣所に逃げたが、1人は井戸に飛び込んで死んだ。このように遺恨は徐々に深まり、事態は難しくなったのである―。
それから、五条大橋の東西両詰に張り紙があったので、写しを記す。
「今回の長州藩召し捕えの件は、もっぱら一ツ橋中納言(一橋慶喜、後の15代将軍・徳川慶喜)がたくらんだことで、幕府の重役はみな攘夷の志がなく、外国との交易を盛んにし、私腹を肥やそうとするものだ。長州は尊王攘夷を唱え、近々実行する。幕府は危機感があるから今回のようなたくらみをするわけで、一橋をはじめとする者たちは、この上もない大罪人だ。遠からず天誅を加える 誠議雄士」
「一橋中納言は大奸賊(憎むべき悪者)で、罪は枚挙にいとまがないが、その中でも一番の罪は、今、長州藩を召し捕えるに至ったこと。遠からず、旅館に天誅の火を付ける 天下雄士」―。
それはそうと、大文字山の「大」の字の火を見た。ありがたいことだ。
7月16日には、警備のために上京中の人々へ、禁中(御所)から陣中見舞いとして暑気払いの薬が2錠ずつ配られ、篠山藩重役の鈴木幸右衛門様がこの薬を頂戴してこられた。私もありがたく頂戴した。
18日、長州藩士から朝廷に出されていた数通の願書は残らず差し戻しとなったようだ。
この願書は中川宮様(中川宮朝彦親王)、一橋様、会津様(松平容保)が長州を京から追い出したことの善悪をただすもので、それが次第に強訴(集団で要求を突きつける行為)になった様子。差し戻しもこのお三方の計らいという噂だ。
長州は、「松平容保様を洛外に追い出してほしい。もしも難しいなら僭越ながら京に入り、一戦に及ぶ」と願い出ていたとも聞いた。このことがあったため、京の街道口を警固するよう仰せ付けられたのだ。
この日の午後8時、長州が陣を置く天龍寺を制圧する準備をするよう知らせが来た。篠山藩は遊軍だ。
このお達しで開戦合図である拍子木の3回打ちがなされた。私たちはすぐに藩邸に詰め、庄屋以下、猟師に至るまで防具を渡すこと、郷夫はめいめいで防具を用意して、いつでも荷物を運べるように準備しておくと仰せつかった。
ただ、猟師の防具については西院にいた25人分だけで、藩邸にいた25人分はなかった。防具が足りなかったのである。
このような状況の中、私も防具を借りたいと思っていたが見ての通り。御家人の皆さんも足りていない。
なじみの店があれば自分で買ってきてもよいと言われたが、夜中なのでどうしようもない。防具も着けずに出発することになったのは、はなはだ残念だった。
7月19日午前6時、御所の近くで砲撃音が激しくなり、合図の拍子木が打たれた。人数を整えていたところ、午前7時過ぎ、御所に向かうよう知らせが来たため、殿様が御出馬されることになった。
行ってみたところ、御所の近辺は交戦状態だ。一行は清和院御門から入り、仙洞御所前の一橋様の陣所に向かい、命令を受けようとしたが、「堺町御門は大砲戦の最中なので、寺町から迂回して、臨機応変に戦え」とのこと。そうこうしているうちに蛤御門で激しい戦いが始まり、門の内側の警固に就くよう、新たな命を受ける。
警固を固めていると、正午ごろになり、堺町御門の戦いが激しくなり、対応していた薩摩・会津勢が今朝からの防戦で疲れているため、応援に行くよう命じられた。
兵をまとめて現場に向かい、大砲1挺を堺町御門にいた越前様(現在の福井県)、井伊様(現在の滋賀県彦根市)の後ろに布陣した。
このころ交戦は終わっていて、付近の屋敷の前では火柱が立ち、どこからとも分からない砲撃音が轟くばかりだった。
長州は撤退し、私たちは交戦には至らなかったけれど、午前8時から午後2時まで、鉄砲玉が雨のように飛来する中をしのぐのは本当に恐ろしい体験だった。
まったく私たちの殿様はご武運が強い。戦もなく、みんな無事で日付が変わった20日午前零時には西院村に帰り、お供の皆さんも帰ってきた。
と思ったら今度は午前3時に命令があり、御所の中で警固していた場所に武器などがあるので、そこで見張り番をし、夜が明けたら人足を連れて戻るようにとのこと。30人を引き連れて御所に行くと、堺町御門、蛤御門、中立売御門は閉鎖となっており、どの門も諸大名様が厳重に警固されている。
しかたがなく、死体を踏み越え、迂回して今出川御門から入った。今出川御門は高松藩(現在の香川県高松市など)が警固されていた。4000―5000ばかりの軍勢で、美しい甲冑がかがり火に照らされている。大砲は30挺ほど、小筒は数えきれない。やりや刀を持つものは、みな鞘を抜き、鉄砲は火縄に火をつけている。この中を通るのは本当に肝を潰す思いだった。戦場となった3つの門での戦死者は、600とも700とも1000人余りともいわれているが確かなことは分からない。
ただ、私は長州の戦死者を70人ばかりこの目で見た。死体は打ち捨てられていたが、いずれも首がなくなっていた。
この日の午前4時ごろ、天龍寺にいた長州勢が松原通りから入京したようだ。午前7時には山崎にいた長州勢が伏見竹田街道の銭取橋というところで砲戦を始め、午前8時ごろには付近の会津藩の陣所に火をかけた。陣所は燃え上がり、長州勢は勝ちどきを上げ、入京したらしい。
一方、伏見街道では2カ所から激しい砲撃を受けたため通り抜けることができず、入京しなかった。多くの長州藩士が戦死したようで、どこかに撤退したそうだ。
また同じ日の午前8時、二条河原町の長州藩邸から出火。午前10時には鷹司殿(公家で藤原五摂家の一つ。長州勢が朝廷への嘆願書を持ち込んだ場所。リーダーの久坂玄瑞はここで自刃している)の屋敷に火矢が打ち込まれて出火した。
午前11時にも堺町通りで出火したが、こちらも会津の火矢によるものらしい。会津は御所内の「御花畑」という場所に殿様がおり、そこから次々と兵を出していたのだ。
御所近辺から松原通りまで、19日朝の開戦から午後3時までには一面の火となり、20日には七条まで焼け、21日午後6時になって鎮火した。
この戦と火災で京都のまちの人々は、老若男女に至るまで一人残らず四方八方の野辺に逃げ出し、消火に当たる者は1人もいなかった。
20日午前8時ごろ、私は陣所の片付けをし、人足に荷物を持たせて西院村へ戻り、朝食を取っていた。その時だ。
三条通りの松山様(現・愛媛県松山市など)の陣所で鉄砲の打ち合いが始まった。だんだんと激しくなり、こちらからは二町あまり(約218メートル)の場所なので、鉄砲玉がたくさん飛んでくるようになった。
火災で焼け出された京の人々は、この辺りの野辺や家々の軒下に数万人いたから、一瞬のうちに上を下への大混乱となった。
こちらの陣所もみな狂乱し、迎え撃つ体制を整えるまでもなく、郷夫たちは残らず逃げ出した。桂(現・京都市西京区)辺りまで逃げた者、亀山(現・京都府亀岡市)の山に逃げて一日飲まず食わずだった者、また篠山まで帰ってしまった者もあって、人々の泣き声は4時間ばかりもやむことがなかった。
正午ごろになって郷夫の人数を調べてみると、600人ほどいたのに、13人になってしまっていた。少しずつ戻ってきて、夕方までには400人がそろい、篠山まで帰った200人あまりも26日までには残らず西院に戻ってきた。
この日の午前8時ごろ、長州の拠点となっていた天龍寺が焼き払われたらしい。薩摩勢は焼玉を天龍寺へ打ち込んだ。その砲撃音は天地を轟かせ、恐ろしい音だった。
こうして19日夕方から20日夕方までの間に、長州藩は次々と撤退したのである。ただ、どこに引き上げていったのかは分からないというのが不気味だった。
21日となり、諸大名の皆さまは陣所を引き払って、それぞれの国元へ帰国された。このことから京にいる人員が減り、譜代家(関ケ原の合戦以前から徳川氏に仕えた大名。篠山藩の青山家も)は次々と警固所が増えていった。殿様にも京本町通り丸太町の警固が命じられた。
この日、大阪の長州藩の蔵屋敷が取り払いとなったらしい。
それと、幕府から京の町人で生活が困窮している者へ、米や銭を施すという高札も立てられた。
もう一つ、あちこちに立てられた高札の写しを記しておく。
「このたび長州人は恐れ多いことに自ら戦を始め、御所を犯し、容易ならざる騒動となった。人々の困難も解消されていないが、残党は次々と捕まえ、静まってきたので、他の土地に避難している者は安心して京に戻るように。また、幕府側がむやみやたらに焼き払ったなどという根拠のない噂を流す者もあるようだが、そのようなことは決してないから、それぞれ仕事に専念して騒動を起こしてはならない」
「もともと長州は勤王(天皇に忠義を尽くす)と称してさまざまな手段で人心を惑わせるため、信用している者もあるとは思うけれど、御所に発砲するなど罪は明白だから追討されることになったのだ。彼らを信用していた者も改心すれば許されるので、申し出るように。それと潜伏している長州人を発見した場合、速やかに申し出れば褒美を出す。それから、長州人をかくまっていることが分かった場合は、朝廷の敵と同罪とみなすことになる 奉行」
そして、23日、長州追討の御達しが出された。
私たちは戦いが始まった19日から収まった21日までの3夜、野宿となった。食事は兵糧米を焼失していたため、周山の藩の領地から運んだ黒米同然のにぎり飯を一度に2つずつだけ。漬物やみそはもちろん、塩も茶もなく、水を飲んだ。
京都の洛中はもちろん、洛外までも物資が品薄になっていたため、白米1升が銭一貫文という高額になっており、それも2、3合しか売ってくれない。酒も一切売ってくれなかった。
わらじは1足120文もしたが、これもなかなか手に入らなかったため、みんな困った。
このような場所に向かうときは、わらじや兵糧はたくさん腰につけていかなくてはならないと分かった。
25日になって、殿様は鷹ヶ峯に移動され、西院村の御本陣などは残らず引き払われた。
29日朝、いよいよ長州追討となり、追討に参加しない大名には、「自国の警固を厳重に固めるように」と知らせがあった。「自国の警固」について、「どのようにすればいいか」と尋ねられたところ、「書面通り」と指図があったそうだ。
この日の午後2時ごろに鷹ヶ峯を出発し、途中、弁当を食べながら翌日の午後1時には福住を通過。篠山城に戻られた。私も午後5時には帰宅。京に向かってから実に33日目のことだった。
後日、御所に出向いた重役の方から来た連絡によると、「容易ならざる乱の中で、各藩から兵士が出張し、粉骨砕身防戦し、速やかに鎮圧したことは、並々ならぬ忠勤だった。特にその後の数日、終夜の警備は、猛暑の時節柄、ご苦労だった」とのことだった。
神戸大学松本充弘特命助教の話 石田家は地域社会の公共的な役割を担ってきたことに対する自覚と自負があったと思われる。現在の私たちが資料を目にすることができるのは先人の努力の賜物。村が責任を持ち、年貢の上納や法令の浸透を担う江戸時代のシステムの中で作成された文書の豊かさに触れてほしい。