今年で終戦から77年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は山本和志子さん(97)=兵庫県丹波篠山市今田町今田=。
兵庫県丹波篠山市今田町芦原新田の出身。第2次世界大戦の戦火が激しい中、教師を目指して神戸市の湊川にあった女学校に通っていた。寄宿舎で生活していたが、食ベ物がなかったことが印象に残っている。はったい粉が主食のようなものだった。
頻繁にサイレンが鳴り、焼夷弾が降ってきた。その度、着の身着のままで近くの防空壕に駆け込んだ。「怖かった。神戸におったら死んでしまうと思った」。授業中にサイレンが鳴ることもあり、落ち着いて授業を受けられる雰囲気ではなかったが、教員試験に通りたい一心で「寝ずに勉強した」。そのかいあって無事に合格。終戦前に帰郷し、最初に八上小学校、その後、今田小学校釜屋分校で教壇に立った。
戦争が終わったことを知り、「これでごはんが食べられると思った」ことを思い出す。実家は農家だったので、食べるものはあった。何を食べてもおいしかった。「コーヒーに砂糖が入っていると、『わあ』とびっくりした」と笑う。
戦後、古市駅に降りたった兵隊が、ザックを背負って不来坂峠を越えて帰って来る姿をよく見た。一方で、夫が二度と帰ってくることはなかった近所の人もいた。「ご主人が戦死された人は、ご主人の分も働いておられた。大変やったと思う」と振り返る。
戦後、同じ町内の農家の男性と結婚。米、麦、タバコを栽培する手伝いと子育てに忙しく、教師は5年ほどでやめざるをえなかった。「教師はやりがいがあった。一生懸命教えれば、子どもたちはそれに応えてくれた」
教師をした経験からも、「子どもも犠牲になる戦争はあかん」と言い、現在のウクライナの情勢を見聞きする中で、「かわいそうなこと。偉い人たちはもっと考えんとあかんな」と話していた。