二宮和也さんが主演する映画「ラーゲリより愛を込めて」。辺見じゅんさんのノンフィクション「収容所から来た遺書」を原作にした映画で、第2次大戦後、ソ連軍の捕虜として収容所(ロシア語でラーゲリ)に抑留されながらも生きる希望を捨てなかった山本幡男さんの半生を描く。原作の中で、山本さんの遺書を暗記し、愛する家族に届けた「奇跡の遺書リレー」を担ったメンバーの中に、兵庫県丹波篠山市川原出身の故・森田(後に矢野)市雄さんがいる。遺族の証言などを基に、思いをつなげた経緯、そして、帰国後の森田さんの姿を追った。(内容は史実と原作に基づいており、映画とは異なります)
島根県隠岐郡西ノ島町出身の山本さん。満州・大連市の満鉄調査部に入社し、大戦末期の1944年(昭和19)に召集されると、ロシア語が堪能だったことから、翌年、ハルビン特務機関に配属された。
山本さんは日本の降伏後、スパイ容疑をかけられ、スベルドロフスクやハバロフスクの収容所に長期抑留された。冬には零下数十度にもなる極寒の地で、粗末な食事しか与えられない厳しい環境のもと、苛烈な重労働を強いられる。
◆始まった句会 「栗仙」名乗る
46年(昭和21)、博識だった山本さんは、生きる希望と、日本や日本語を忘れないようにと、収容所内で仲間と共に日本文化を学ぶ勉強会「同志会」を始める。50年(昭和25)には、俳句を好む人たちと句会をつくった。
「アムール句会」と名付けられた句会の設立メンバーの一人が森田さんだ。森田さんは終戦時、満州・吉林におり、機動第2連隊の小隊長を務めていたが、演習中にソ連軍と遭遇し、捕虜となっていた。山本さんとは収容所内の休養室で同室となり、ロシアで見たオーロラや修道院の話をし、親交を結んだ。
森田さんは連隊の仲間から俳句を習っており、山本さんも含めた3人で俳句を作り合うようになった。当時は紙もペンもなく、地面に句を書いては消した。セメント袋を切って短冊にした時期もあったが、句会が終わると細かくちぎって土に埋めた。監視兵や密告者に不穏な算段をしていると思われないためだ。
森田さんは俳号を「栗仙(りつせん)」と名乗った。「収容所から来た遺書」の中では、「森田は丹波栗で有名な丹波篠山の生まれだったので『栗仙』とした」と紹介されている。山本さんは「北溟子(ほくめいし)」とした。森田さんは、句会で「普請場に 燕大きく来りけり」などと詠んでいる。
◆遺書を暗記 妻宛てを担当
少しずつメンバーが増えたアムール句会では、軍隊時代の階級や肩書きに関係なく俳句を楽しんだ。重労働のつらさを忘れて自然を愛で、労働中も次の俳句を考えるなど、生きる希望となった。森田さんは山本さんから厚い信頼を受け、句会の世話役をし、また年長者だった山本さんの世話もした。
「帰国(ロシア語でダモイ)」の思いを胸に、仲間たちの精神的支柱であり続けた山本さんは54年(昭和29)、収容所内の病室で亡くなった。45歳。抑留されて9年がたっていた。
森田さんは何度も病室に見舞い、消えかかった命の火に活力を与えようと、句会の選者を頼んだり、昔の句を見せたりした。山本さんからは、「栗仙君、日本へ帰ったら、ぼくたちのシベリア句集をつくろう」と誘われていた。山本さんが亡くなった際には、「死の因を吾は問ふまじ野分吹く」などの追悼句を作っている。
死の前、仲間たちは山本さんに、家族に宛てて遺書を書くことを勧める。希望を与えてくれた山本さんへの恩返しとして、遺族のもとに届けることを熱望したが、日本語を書き残すことはスパイ容疑とみなされ、帰国中に遺書を隠し持っていることが判明すると収容所に逆戻りとなる可能性もある。
そこで仲間たちは分担して遺書を暗記し、「持ち帰る」ことを決意。森田さんは妻、モジミさんに宛てた「妻よ!」の部分を受け持った。
森田さんらは56年(昭和31)、ダモイを果たす。帰国船の中では、289回目となる句会が開かれた。
終戦から12年目となった翌57年(昭和32)、暗記担当者の一人が初めてモジミさんのもとへ遺書を届けた。森田さんも同年、封書で遺書を送り、山本さんへの恩を返す大役を果たした。
◆私生活多趣味 俳句も続ける
森田市雄さんは1984年(昭和59)、その生涯に幕を降ろした。72歳だった。
無事に帰国した森田さんは、故・矢野千鶴子さんと結婚し、矢野家に入った。千鶴子さんと戦死した前の夫との間に生まれた矢野邦征さん(77)=兵庫県丹波篠山市中=が幼い時のことだ。
終戦の1カ月前、邦征さんは満州の地で生まれた。「終戦時、母は私と姉を連れて着の身着のままで逃げ、1年たってやっと日本に帰ることができた。後に父の戦死が分かり、祖母が私たちをふびんに思って良い人を探した。それが市雄さんだった」と話す。
「育ての父」である市雄さんはどんな人物だったのか。
「温厚で怒られたことがない。そして、寡黙だけれど優しい人だった」と言い、「祖母も市雄さんを信頼していて、『市雄のすることに間違いはない』といつも言っていた」
定年まで近くの診療所の事務を務め上げた市雄さん。私生活はとにかく多趣味で、絵画に囲碁、謡、菊やシイタケづくり、木工など、さまざまな分野を楽しんでいたという。
「山から帰ってきて、母に『小屋を建ててきた』と言って驚かせたこともあったし、庭にある池も直してくれた。何でもできる人だった」と邦征さん。「収容所で身動きが取れない生活を送る中、『もしも日本に帰ることができたなら、いろんなことをしたい』と考えていたのではないだろうか」と推測する。
俳句も続け、小さな手帳にびっしりと句を書きつけていた。アムール句会で使った「栗仙」という俳号も使い続けており、自宅の庭に続く門には、「夢 栗仙」と書かれた木が今も掲げられている。「夢」にどういう意味を込めたのか、家族にも分からない。
◆抑留は語らず 「遺書励みに」
亡くなったのは自宅での作業中の事故。腰痛はあったが丈夫な体だった。だからこそ長期の抑留を生き抜くことができた。ご飯はよく食べ、残したことを見たことがない。食べ物のありがたさも身に染みていたのだろう。
戦争や抑留のことについてはほとんど話したことがなく、邦征さんは山本さんの遺書を遺族に届けた「奇跡の遺書リレー」のことも、後に辺見じゅんさんの「収容所から来た遺書」が発刊されたことで知ったという。
「つらい思い出に触れてはいけないと思って聞かなかった。遺書を暗記することは大変だったと思うが、『俺がやらないと』という励みになっていたのでは」と父に思いを寄せる。
邦征さんは、今回の本紙の取材依頼を断ることも考えたという。それでも引き受けたのは、「市雄さんに育ててもらった。親孝行らしいことを満足にしてあげられなかったので、市雄さんのことをたくさんの人に知ってもらうことが少しでも恩返しになるのでは、と」。
市雄さんが帰国したのは、「もはや戦後ではない」と言われた時代。「『自分はこういうことをしてきた』と言いたかったかもしれないが、世が世。私たちがもっと話を聞いてあげたらよかった」と声を震わせた。
◆つらい思い出 あえて彫る
自宅の庭に一つの石碑がある。市雄さんが立てたものだ。そこにはこんな句が彫られている。
「尺取の 尺取り終えし 虚空かな」
ひょこひょこと体を伸び縮みさせながらシャクトリムシが進む。行きついた先にはもう体を置く場所がなく、それ以上進めなくなって虚空の中であえいでいる場面。
極寒の地で飢餓と重労働に苦しんだ抑留時代、行き場を失った自分の姿をシャクトリムシに重ね合わせた句とみられる。邦征さんら家族は、市雄さんの葬儀の際、「栗仙」の句をしたためた湯飲みを香典返しにし、この句も入れたという。
先が見えない暗闇の中でもがく自分。そんなつらい思い出をあえて句碑にした市雄さん。どのような思いが込められているのか。今となっては誰にも分からない。
12月9日、原作を基に作られた映画「ラーゲリより愛を込めて」が公開された。邦征さんは、「見てみたい」としみじみと語った。