今年で終戦から78年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は荒木さか江さん(90)=兵庫県丹波市春日町野村=。
小学校時代に受けた理不尽な仕打ちは鮮明に記憶に残っている。苦難を乗り越えたあの頃の経験を教訓に90歳の今まで、人生を歩み続けてきた。
10人きょうだいの8人目として生まれた。
戦況が悪化し、地元の黒井小学校3年生の時から軍隊式の教育が始まった。学校ではチャイムが鳴ると、奉安殿の方を向いて「気を付け」をし、「勝ちます」「欲しがりません 勝つまでは」と合唱した。運動場の半分は土を掘って防空壕になった。山で炭にするまきや薬草を取り、運動場へ運ぶ作業に汗を流すようになった。
股関節に「でんぼ」(はれ物)ができて化膿し、手術をして歩くのが困難になった。ある日、痛みに耐えながら作業をしていると、先生から「なまくらこいて。それでお国に御奉公できるのか」と叱責され、廊下に立たされた。
学校で大きな弁当箱を持っていると重さを測られ、少しでも重いと、「ぜいたくだ」と、また廊下に立たされた。サツマイモ2切れに、紅ショウガ1枚しか入っていないような弁当が3回ほど盗られた。
先生に砂糖や肉を“献上”する店屋の児童がいた。先生は皆に聞こえるように「ありがとう」と大きく声に出した。配給の靴は、決まって“献上品”を渡した児童に渡されていた。荒木さんらはわら草履のままだった。
「子どもながらに『これがひいきか』と思った。先生もあったもんやない」と憤り、「信じられるのは自分だけ。人はどっちにでも転ぶ。自分一人でやらなあかん」という気持ちが芽生えた。
猟師の父は地域のリーダー的存在で、さまざまな世話役を任されていた。地域では「寝る所が一部屋でもあれば疎開者が来ていた」という。「バタコ」と呼ばれるオート三輪車で地域を周り、疎開者のための食材集めに奔走した。
上空に米軍機が現れると、メガホンで空襲への警戒を呼びかけた。「『ブーン』という音がして家の縁側から空を見ると、赤と青の電気がパッパッと光り、列を組んで飛んでいた。怖かった」と、昨日のことのように語る。父はいつ空襲が来ても対応できるよう、足袋を履いたまま寝ていた。
12歳の時、友だちと近くの竹田川に泳ぎに行く前、ラジオから流れる玉音放送を聞いた。「負けへんやろ。嘘や、と思った。悔しかった。ずっと勝つと教えられてきたから」
外国に駐屯する軍隊に所属していた2番目の兄は無事に帰国。3番目の兄には赤紙が届き、黒井駅で旗を振って見送ったが、幸い、他国に派遣される前に終戦を迎えた。
終戦後、20歳で結婚し、工場や温泉旅館で働いた。29歳の頃に夫が働く大阪へと引っ越し、競艇場で定年まで働いた後、帰郷して2人の子を育てた。
90歳の今も、10種類近い野菜や果物を自ら栽培。シソや薬草でジュースも手作りする。ぜいたくをしない、自給自足の精神が根付いている。「今はおやつもあって、腹いっぱい食べられる。けっこうな世の中になった。孫はスマホばかり触っているけれど、人の気持ちをくめるようになるのか心配」と言い、「辛抱する時代を切り抜けたことは力になった」と前向きに捉えている。