今年で終戦から78年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は臼井邦昭さん(88)=兵庫県丹波市氷上町絹山=。
幸世国民学校(現・同市)4年、10歳で終戦を迎えた。母は自分を産んですぐ亡くなり、養子だった父は家を出て、祖父母に育てられた。自宅は学校の近くにあり、人の出入りが多い家だった。「広島に新型爆弾が落ちたらしい。戦争に負けるらしい」と、祖父と近所の人がうわさ話をするのを布団の中で聞いたのは、昭和20年8月12、13日頃だったと記憶している。
8歳の頃、風呂に入っていると、祖父が近所の人に「現役志願で行かせようと思う」と自分の将来について話しているのが聞こえた。昭和20年8月15日で戦争が終わると誰も思っておらず、自分もぼんやりと大きくなったら戦争に行くものだと思っていた。
「お前らは兵隊に行かんといかん」と、学校では、教師に意味なく殴られた。銃後を守る「少国民」(「年少の皇国民」の意)として、出征兵士宅の勤労奉仕に駆り出された。上級生は薪炭増産で、校区内の山で作業に励んだ。安全山の麓にススキの穂を取りに行った。「落下傘に使う」と説明を聞いたが、「そんなもので間に合ったのか、今でも分からない。子ども心に、こんなのでほんまに勝つんやろうか」とも思っていた。
若い男性は出征しており、教師はほとんどが女性だった。門にある、チャーチルとルーズベルトのわら人形を竹やりで刺すのが日課だった。あるときは男性教員が、茶色の髪、青い目をした敵国の少女の人形の髪をむしり、服を引き裂くのを見せられた。「敵がい心をあおろうとわざわざ持って来たんだろう」と振り返る。
国民学校に上がる前、篠山(現・同県丹波篠山市)の歩兵連隊の演習時に兵隊が家に泊まりに来た。家々が精いっぱいのもてなしをした。3人の兵隊が、祖母の料理を、茶碗をかむような勢いで食べた。「強烈な汗のにおいが忘れられない」
学校が分宿の拠点になっていて、軽機関銃がずらっと並べられていた。演習に連れて歩く馬も校庭につながれていた。兵隊を見に行っていると、「ギャーッ」と悲鳴が聞こえた。馬に胸を蹴られた兵隊は、そのまま亡くなった。
戦時中に出会った人で、もう一度会いたいと思う人がいる。昭和19年から20年にかけての終戦間際のこと。円通寺(丹波市氷上町御油)が、尼崎市から学童疎開を受け入れていた。その中の1人の「お兄さん」に祖父が頼んでくれ、食べ物と引き換えに算数を教わった。家庭教師だ。「学校の先生と違って、良く分かった」
何より見た目に憧れた。カーキ色の国民服に戦闘帽は田舎の子と同じ。違ったのは足元。巻き上げのゲートルでなく、真っ白な脚絆。「都会的で、まぶしかった」。存命なら90代。名前も学校名も分からず、手がかりは何もない。「あのお兄ちゃんに会いたいと、今も思う」