今年で終戦から78年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は飯谷さき子さん(90)=兵庫県丹波市柏原町柏原=。
1932年(昭和7)、京都府福知山市多保市の生まれ。4人きょうだいの末っ子だが、物心がついた頃には兄、姉たちは家を出て勤めており、両親と3人で農業に汗を流した。来る日も来る日もくわを振る日々にあって、戦争にまつわることで印象に残っているのは、近くにあった陸軍の長田野演習場に隊列を乱さず行き来する兵たちの姿だ。
「娘時代はね、百姓の手伝いが一番に優先しないといけないことだった」と振り返る。通っていた下六人部小学校から帰宅しても友人と遊ぶようなことはなく、遊びたいとも思わなかった。それが普通だと思っていた。
自宅の周囲にはブドウ棚がこしらえてあり、多く実った。米や麦なども育てており、「戦時中でも、幸いなことに食べ物に困ることはなかった」。“村一番”の量の蚕を飼っており、最盛期には廊下で寝なければならないほどだったという。
時おり、都会から汽車に乗って作物を買い求めに来る人がいた。1人で運べる量は限られており、2、3日分だけ買っては、また数日後にやって来ていたことを記憶している。
目まぐるしい農作業の日々で、戦争を意識したことはほとんどなかった。ただ、毎日のように陸軍兵の隊列を見た。歩行訓練だったのか、100人ほど連なっているときもあり、子どもたちの姿を見てほほ笑んでくれる兵もいたという。「優しく笑いかけてくれて、兵隊さんを怖いように感じたことはない」
戦後、24歳で柏原町にあった料理旅館「銀華」に嫁いだ。3人目の子どもが生後2カ月の時に夫が亡くなり、多くの苦労を重ねてきた。「男は戦争に行き、女は家で働く。それが当たり前だった。当時と今では時代が違い、今は今の苦労があるのだろうけれど、若い人には時間を無駄にすることなく生きてほしい」