藩からの負担に〝キレた〟 江戸期の町民残した史料読み解く 新たな仕事は断固「お断りします」

2023.11.09
歴史注目

藩からの役務に対し、「お断り」を突きつける町民(イメージ)

兵庫県丹波篠山市上立町自治会が大切に保存してきた「上立町文書」。約1400点に及ぶ江戸後期―昭和前期の史料群で、このほど市の市史編さん事業で内容が明らかになった。特に江戸期の「御用人足御赦免願」は、城下町で暮らす「町方」の人々が、藩からどのような役務を割り振られ、それにどういう気持ちでいたのかが読み取れる貴重な史料だ。丹波新聞社は、市教育委員会、神戸大学の松本充弘特命助教の協力を得て、現代語訳してもらった上で、さらに分かりやすくまとめた。そこには重い負担に藩に対して声を上げる〝生の声〟がありありと浮かぶ。

より深く知るために、内容に入る前に少し概略を。この史料が作られたのは江戸時代の天明9年(1789)。城下町11町の名主21人が連署しており、町方の総意だと分かる。現代で言えば、自治会長会が行政に出した意見書といったところだろうか。

この前年に「京都大火」が発生し、京都の大半が焼けた。京都火消し役だった篠山藩も出動しているが、役人だけでなく、町の人たちにもさまざまな役務が割り振られたことで負担が多かった。

史料からは町方の人たちが多くの役務をこなしていたことが分かり、さらに大火で負担が増えたことで〝堪忍袋の緒が切れた〟とみられる。さまざまな負担を書きまくり、何度も「お断りします」と丁寧ながら断固として主張している。

ちなみに、現存する史料は写し。しかも、写したのは74年もたった文久3年(1863)だ。

幕末の動乱期、京都防衛のためにさらに負担が増える可能性を感じたのか、「いざというときには、『昔の人はこんなことを言っていた』と覚えておこう!」と写したのかもしれない。

では、時を戻そう。

◆天明七年の窮状

江戸期に作成された「御用人足御赦免願」。人々の生の声が詰まっている

恐れながら、書面にて失礼します。

天明7年(1787)に京都の園部、周山行きのため、急に必要になった人手と、翌年の春に起きた京都大火で御殿様の出張があった際のお供の御用人足(人手)は、おっしゃる通りに差し出し、無事に務めることができました。

その際は昼夜を問わぬ務めになり、特に京都では手配された宿に行っても泊まれなかった上、酒や食事、わらじなどが高騰し、お金を多く使い込むことになりました。

さらには寒さで病気になり、篠山へ戻った者も出たため、代わりの人手を雇うことになるなど、あれやこれやの理由で金銭的に困窮する事態になりました。

そんなことでしたので、多額のお金を「貸してくれ」と願う者が現れ始め、町内で立て替えて少しずつ渡しておりました。藩よりいくらか助成を頂きましたので、ありがたく分配しました。そして、それ以外の追加の費用は、以前に決めた通り、「郷方」(篠山藩領内の村々)から支給されるということを伝えました。

ところがです。昨年の冬、郷方からの支払いがありませんでした。人々は、「お金が入ってくると見込んでいたので、大変困っている」とたびたび申し出てきます。

何とかしてやりたいのですが、町方も景気が悪く、ことのほか困窮しており、もはや立て替える手立てもないので、しかたなくそのままにしておりました。

◆明和九年の約束

そもそもです。17年前の明和9年(1772)に作成した大庄屋さんからの約束書にはこうあります。

「御用人足が急きょ必要になった場合は、町方と近くの村々に割り当て、追加の費用は郡内で割ることにし、みんなが困らないように取り計らうこと」

これは近隣の大庄屋の押印もある確かな文書なので、この通りになると思って人手を出したんですよ。なのに。

私たちは何度も村の大庄屋さんに掛け合いましたからね。なので、御殿様から頂いたお金に領内で均等に割った「郡割」のお金を足して、1人当たり1匁2分の銀子(手当)を渡してもらえるはずだと思っていますよ。

ただですね、今回は本当に急な要請だったので、町方だけでは人が足りず、近くの各村から人を雇い入れて補ったので費用がかさみ、銀1匁2分程度頂いたところで当日の小遣いにもなりません。

今になっても解決策がなく、みんな不安と困惑が募っており、「迷惑極まりない!」と言っていますよ。先ほど紹介した約束書の通り、みんなが困らないよう、追加のお手当を支払うよう村々に命じてください。お願いします。

こんな状況ですので、これ以上、急な人手を出せと言われても、「お断り」します。その時になって断っては藩の迷惑になるかもしれませんので、先に伝えておきますね。

◆町方の役負担

かつての城下町を描いた絵図。多くの場所で町方の人々が役務をこなしていた

なぜ急な人手を命じられても断るのか、もう少し詳しく理由を説明しましょうか。

以前から城下町の町方に対してさまざまな負担を命じられてきましたよね。これについて言っておきたいことがあります。

篠山川が満水になった時、京口橋の現場で対応した人のお手当はお米5合でした。小川筋や呉服町の土橋の工事をした時にはお米さえありませんでした。これらの仕事に当たる人は100人に上ります。どれも危険な仕事なので、健康な人を選びました。なお長期間にわたって務める場合は、交代の人を出すこともあるため、合計で200―300人になったこともありました。

上河原町裏から風深下までの「御囲い大藪」(藪を使った垣)の修繕は、およそ年に500―600人必要です。何かで垣が壊れた場合は、1000人に及ぶこともありました。これもお米はもらえません。

京口の垣の修繕は例年20―30人でお米なし。京口橋の修繕は60人でできる程度ならお米なし。それ以上かかるほどの修繕ならお米5合です。

月に6回ある京口御門と追手御門の掃除、町の出入り口の番所と門の修繕、お触れが掲示される場所の修繕、町中の木戸の修繕、土橋・板橋・水道のふたの修繕、牢屋の修繕、春日神社の前にある用水池の修繕、水道さらい、正月飾りに使う砂運び―。全てお米はもらえません。

すす払いは1人おかゆ1合。1000人以上が関わる小川口の川さらいはお米5合です。

大名様や幕府のお役人様が移動される際に先回りして知らせる仕事は無給で、お米もありません。警備のために昼夜を問わない立ち番、火災が起きた際の対応もお米なしです。ちなみに火災の時には200人を出すように命じられていますね。

このように、町方はいろんな人手を出してきたんです。そして、ご覧の通り、その多くはお米もお金ももらえません。

もともと、家がわずかな数しかない町方に不相応な負担を毎年請け負ってまいりましたので、幕府や藩の公のお仕事は、以前から「一切やらなくてよい」ようにしていただきました。

御殿様が大坂城代をお務めになられた時には、村からの人手のお手当てを町方からも出すようにと命じられましたが、前例もないことでしたのでお断りし、引き受けませんでした。

ただ、朝鮮通信使が来日された際には、御用人足を15―16人出し、また、遊行上人が来られた際の費用も負担するなど、先例のないお話も仕方なく引き受けたことがありますが。

◆再び天明7年の現状

さて、今回。藩からの仕事が来た場合、1000人のうち25人、2000人のうち45人、3000人のうち60人の割合で、町方の人が入るようにと命じられましたね。

町方のみんなに伝えたところ、「これまでから町方でたくさんの仕事を務めてきたのだから、追加の負担はない」と、古老の言い伝えがあるということが分かりました。ですので、今回の件も「一切お断りしたい」という声がありましたので、お許しくださいませ。

そもそもです。郷方(村)ではどんなことでも全て「石高割」(獲れる米に応じて負担を割る)です。まったく石高がない小百姓は1粒、1銭の負担がかかることもありません。

一方、町方では何事も「軒別」(家単位)で仕事が割り振られます。しかし、わずか600余りの家のうち、8―9割はその日暮らしの者たちです。中には身寄りがない人や、病気で困窮する人も含まれておりますが、そうした人々も仕事を負担することになっているため、彼らを対象から除くわけにもいかず、とても、とても困っているんです。

1軒に1人ですから、600軒で600人。そのうち、先に書いた通り、火災が起きた際の人手を200人命じておられますよね。残る約400人からは、町中の警備に多くの人数を割いております。

高齢者や子ども、病気の人などを除けば、残る人手は皆無です。他の仕事が割り振られてしまうと、城下町が不用心になりますので、これ以上の仕事は一切お断りします。

それに御領内で火事が起きれば当番の人以外にも手がすいている人は火元へ駆けつけ、一生懸命に消火活動をすることになっておりますので、人手がありません。残り火の始末や灰かきは村に命じることが習わしです。ですので、今後、焼け跡の処理は町方がしなくてよいようにしてくださいね。

いろいろと言いましたが、書面の通り、慈悲の心を持って理解していただき、1000人当たり25人などと言った割合や、急な仕事で呼ばれる人手をなくしていただき、城下町に暮らす町人たちの生活が今後も成り立ちますよう、お願いいたします。

◆記者あとがき

史料を現代文化した感想は、「めちゃめちゃキレてるなぁ」。続いて、「こんなことをしてお役人に切られたりしないのだろうか」という心配だった。

市教委に尋ねてみると、「藩と領民は持ちつ持たれつの関係。藩もあまり強硬な姿勢で臨むことはないようで、別の史料などではかなり領民に気を遣っていることもうかがえます」とのこと。書面を出したらいきなり切られるというようなことはなかったようだ。

改めてこの史料の貴重さについては、「ここまで詳細に町方の人々がどのような役割を担っていたかわかる史料はなかなかない」と言い、「多くの負担に人々が不満を抱えていて、現代の私たちも理解できるところがある。今も昔も人々の気持ちはつながっているということを感じられる史料です」と話している。

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