2020年初頭から「3密」という言葉が広がった。感染しないために▽密閉空間▽密集場所▽密接場面―の3つの「密」を避けようというもの。これにより、地域の人と顔を合わせる機会が減り、社会の分断も進んだ。
3密と同時に、「噂」も広まった。20年3月22日付の本紙には「誤った噂に注意を」の見出し。当時、まだ兵庫県丹波篠山市内では感染が確認されていなかったが、「丹波篠山でも出た」という情報が寄せられ、発信元をたどっていくと誤情報だったという内容だ。
緊急事態宣言中の5月3日付の紙面には、「田植え突入もコロナ影響 都市部の子ら帰省悩む」。「県外ナンバーの車を止めていると、近所の人に心配をかけたり、噂されたりする。それが一番怖い」という声もある。いかに人々の心に不安が充満していたかが伝わってくる。
3月29日には感染していたタレントの志村けんさんが亡くなり、衝撃と悲しみが広がった。
マスクの品薄はさらに進み、4月、政府はいわゆる「アベノマスク」を配布。紙面にも「布マスク」の作り方などが登場するようになった。感染が広がる都市部ではクラスター(集団感染)が発生し始めた。
市医師会会長の芦田定医師(67)は、後に3年もの間続く「コロナ禍」の中で、最もつらい時期を過ごしていた。未知のウイルスを前に、「どうしていいか分からない」からだ。
市医師会を構成するのは、約30の医院や病院。資源もマンパワーも少ない中で、もし市内でまん延したら―。不安にさいなまれながらも市や中核病院の兵庫医科大学ささやま医療センター、保健所などと協議を重ねた。「早期診断と、重症化した人をどう救うか」が焦点だった。
一方、4月26日付の紙面に掲載された記事が、当時の実情を示している。「診断『風邪』も感染心配」。風邪の症状を発症した住民が、保健所や病院にコロナかどうかを「PCR検査ではっきりさせてほしい」と依頼したものの基準に合致せず、検査を受けられなかったという記事だ。
今では当たり前のようにできている検査だが、当時、厚労省が示していた検査基準は、基本的に「発熱+濃厚接触歴などがある」ことに加え、「保健所が必要性を認めた」場合のみ。記事にはこの頃、県内の一日の検査数は250件程度とあり、都市部で感染が相次いだことで体制はパンクしかかっていた。
「症状が疑わしい人の中には、都会に勤務している人もいる。重症化を防ぎ、医療従事者の間で感染を広がらせないためにも早く検査をしてほしいのに。なんで」―。
小嶋医院(同市北)の小島敏誠医師(52)は、この頃の検査体制に歯がゆさを感じていた。市医師会副会長でもあり、地域の医療をどう守っていくかを考える中、対策の柱になる検査の前に大きな壁があった。早期に検査ができる体制づくりが喫緊の課題だったが、自前ではとても整備できない。目の前の患者がコロナかどうか分からない。焦りだけが募った。
この窮状の突破に動き始めたのが、ささやま医療センター病院長の片山覚医師(68)=現・岡本病院副院長=。「早期診断、早期隔離と、感染弱者の集団を守る。そして、保健所の業務負担を軽減せねば」と考え、先を見据えた検査体制の整備に向けて行動を起こす。
体制確立は20年12月まで待つことになるが、当時、丹波保健所のみだった帰国者・接触者相談センターを医療センターにも整備し、検査体制を拡充するほか、丹波地域で統一した検査基準をつくり、開業医が「基準に合致する」と判断した場合には、保健所を介さずに検査ができる体制を目指した。後に感染初期の段階から医療が介入する「丹波方式」と呼ばれる体制は、この頃からつくられ始めた。
医師会などからの要望を受けた市も血液中の酸素飽和度を測定し、病状の判断材料にもなった「パルスオキシメーター」40台を医師会に貸与。PCR検査装置や空気清浄機、防護服などに加え、会議をオンライン上で行えるシステムなどを相次いで整備した。
市民の命を守るため、総力戦が始まった。
=③につづく=