能登半島地震で大きな被害を受けた石川県七尾市にある妙圀寺。住職の鈴木和憲さん(44)と妻の淳子さん(40)は、娘の沙和さん(9)と共に被災し、大きな被害を受けながらも、人々が集い交流する場として寺を開放してきた。一家は、「困難な状況だからこその出会いやご縁がある。嘆くばかりではなく、今こそお寺の役割を取り戻したい」。寺の修復費用は計り知れず、先行きも不透明だが、「私たちらしく努力を続ける」とほほ笑む。物心両面で地域のよりどころとなっている寺を訪ねた。
七尾市の中心市街地から少し離れた小高い山に、16の寺院が集まる「山の寺寺院群」がある。その中の一つが妙圀寺だ。地震で山門は倒れ、境内には地割れが走る。「今も地割れは広がっているし、お堂も傾き続けている。次にまた大きな地震が来たら、どうなることか」。そう言いながらも、夫婦は、「遠い所からありがとうございます」と笑顔で迎えてくれた。
地震が起きた元日夕。一家は新年の参詣者の見送りを済ませ、お堂の片付けをしていた。その時、震度6強の揺れが襲った。
目の前を仏像や仏具が飛ぶ。外では何かが倒れる轟音が響く。大人でも体が浮き、淳子さんは飛びそうになる沙和さんの体を必死に抑えた。「生き埋めになる」―。そう感じるほどだった。
やっと揺れが収まると津波警報が鳴り響いた。津波の避難所になっていた寺には、近所の人たちや乳児園の子どもなど約40人が着の身着のままで避難してきた。強烈な余震が続き、いつ崩れるともしれないお堂には入れない。寒さと恐怖に震え、パニックになりながらも、余震の合間を縫って室内から毛布を取り出して配るなど、避難者のために動いた。
その後、小学校に避難所が開設され、避難者たちは移動したが、なおも避難してくる人がいる可能性があることや、火事場泥棒を懸念し、一家は車中泊を選択。一睡もできないまま夜を明かした。
お堂の中は何もかもがぐちゃぐちゃになり、壁は崩れ、屋外のように雨漏りがする。この先どうやって再建していけばいいか。「気持ちがふわふわして、あの時から今もずっと、夢なのか現実なのか分からない」(淳子さん)
幸い近所の人が家の一室を貸してくれて、夜はそこで眠り、昼間は寺に戻って片付けをする日々が続いた。しばらくすると、被害が少なかった県内の寺院や縁があった団体などから支援が入り始める。片付けや地割れの応急処置をしてくれたほか、物資も届けてくれた。
一家はお堂の一角を物資の保管場所にし、近隣の人たちが自由に持ち帰れるようにした。大規模な断水が起きているものの、寺は井戸水が使えたため、誰でも使えるように開放。多くの人が出入りするようになり、自然と会話が生まれていく。「大変だったねえ」「元気にしていた?」―。
和憲さんは、「お寺って敷居が高いと思われがちだが、物資があることでたくさんの人が来られ、しゃべるうちにお互いに『頑張ろう』という気持ちが出てきた。普段、寺は何かと相談を受ける側だったけれど、『人間と人間』として壁がなくなったことで、私たちも救われた。本質を学ばせてもらっている」とにっこり。そして、「これがお寺のあるべき姿なのかなとも思う」。
兵庫県丹波市出身の淳子さんは、地元の柏原高校を卒業後、専門学校を経て、福祉関係の仕事に就いた。忙しく仕事をこなす中、縁あって和憲さんと結婚。「友だちからは、『お寺の奥さんなんて務まるん?』と言われたこともあったけれど、『なんとかなるんじゃないかな』って」―。寺に嫁いで今年で13年目となった。
法要だけでなく、さまざまな人たちと気さくに話し、和憲さんと二人三脚で悩み相談にも応じる日々。電話で10時間以上も相談に乗ったことがあるそう。淳子さんは、「人の悩みは尽きないので、相談は完結することがない。大変だけれど、終わりがないので飽きることもない。もちろん悩みを聞いてしんどくなることもありますが」と苦笑する。
七尾市に来ても地元の丹波弁は健在。「あちこちで丹波の出身ですと言っています。ついつい『雨がぴりぴり(小雨が降っている)』と言ってしまって、『いらいらしているってこと?』などと言われることも」と笑う。隣では和憲さんがうなずきながらほほ笑む。供物には実家から送られてきた黒大豆や栗なども並ぶ。
地震後しばらくは近所の人の家で眠り、日中は寺に通って片づけをする日々を続けていたが、居住部分は比較的被害が少ないことを確認し、再び寺での生活に戻った。
近隣の人に物資を配布するなど、慌ただしい時を過ごし、空き時間に井戸水を使って風呂桶に湯を張った。「あんなに感動するお風呂は今後、ないと思うくらい気持ち良かった」。温かな湯が心もほぐす。まともな入浴は20日ぶりだった。
取材していると、玄関に「ただいま!」と元気な声が響いた。娘の沙和さんが同級生の宮田そらさん(9)と連れ立ってお寺に飛び込んできた。「新聞記者? どこの新聞?」とハイテンションな2人にこちらも頬が緩む。
今でこそ元気いっぱいな沙和さんだが、激震を経験したことでしばらくは笑顔が消え、食欲もなくなった時期がある。余震は今も続いており、怖くてたまらず、両親のそばを離れることができなくなった。1月下旬に小学校が再開したが、しばらく登校できなかった。祖父母がおり、安全な「丹波に行きたい」と嘆いたこともあった。
そんな沙和さんのもとに、友だちが入れ代わり立ち代わりやってきた。同級生だけでなく、学年が違う子どもたちも物資を受け取りがてら遊んでいく。「怖くて行けないと思っていたけれど、大丈夫だったよ」「先生が下校にも付いて来てくれる」と、学校の話もしてくれる。炊き出しなどの際には、お堂いっぱいに子どもたちの笑顔があふれた。その笑顔の中には沙和さんの姿もあった。
今、沙和さんは学校に通えるようになった。「親ではできなかった部分を子ども同士の信頼関係や安心感で補ってくれた。本当にありがたいこと。普段のつながりがいかに大事か、身に染みました」
淳子さんの丹波出身は周囲の知るところ。周りから、「一度、実家に帰ったら?」と言われることもあるが、「近所の皆さんが食べ物を下さったり、『留守番しているから丹波に戻ってきなよ』と言ってくださったりする。いろいろと助けてもらっている中、私もここで頑張らないと」と言い、「両親も心配してくれているけれど、来て何かあったら大変なので、今は来ないでと言っている。いつか会った時、初めて泣き崩れるかも」と目を赤くする。
多くの助けを借り、復興を目指す一家。物資の配布はひと段落したが、今後も住民のよりどころとして月に1度ほどのペースで炊き出しやヨガ、コンサートなど、人々が集う行事を開いていく。
夫妻は、「皆さんには感謝しかない。頂いたご支援が無駄にならないよう、必ず復興して、いつか恩返しがしたい」と誓う。