兵庫県丹波篠山市の岩下八司さん(74)が、能登半島地震で甚大な被害が出た石川県珠洲市や輪島市などに赴き、自宅や施設で暮らす人々に食料品や水を届けたり、炊き出しを行ったりするなどの支援に奔走している。東日本大震災や熊本地震など、災害が起きるたびに「自己完結」で長期の支援を行ってきた。能登の人たちとも親交を深め、支援の拠点として空き店舗を借り受けるなど、独自のつながりで現地の人たちを支えている。
NPO法人「P・U・S」の代表で、バングラデシュに学校を建設するなどの活動を行っている岩下さん。日々の活動を支援してもらっている人のつながりが石川にあり、1月1日の発災後、安否確認などを目的に現地に向かった。食料やガソリン、テントなどの装備を整え、5日に珠洲市に到着。多くの建物が倒壊し、水道などのライフラインが寸断された町で、知人の安否を確認して無事を喜び、仲間から預かった支援物資も届けた。
そのまま能登に滞在し、避難所や福祉施設などに物資を届けた。活動の中で分かってきたのが、かなりの数の人が避難所での生活になじめず、自宅に戻っていることだった。危険度判定で「危険」の紙が貼られた家に戻る人もいた。その多くが高齢者。物流がストップし、スーパーなども閉店している。地割れや陥没が起きている道路は移動も難しい。そんな「在宅被災者」への支援の必要性を感じ、食料品の詰め合わせセットを作って届けて回る活動に移った。
避難所には物資が届いていたが、パンや麺などのインスタント食品が多く、「小麦粉はもう見たくない」という人のために、野菜や果物、肉、納豆、漬物などをセットに。通行量が少ない夜間に金沢市まで出向き、食料を調達しては奥能登に戻る生活を繰り返した。海産物が豊富な土地柄もあってか、特に魚が喜ばれ、「1カ月ぶり」という人もあった。
行政などのニーズ調査が始まる前で、誰が何に困っているのか分からない状況だったが、愛車の軽トラで各地を巡る中で、出会った人々に「何か困っていることないですか?」「食べ物は足りていますか?」などと声をかけては水や食料品などを渡した。受け取った人からは、感謝の声が上がっており、岩下さんは、「食べることは大事。ちょっとでも気分が明るくなるから」と頬を緩ませる。
活動初期には地元の人の了解を得て、空き地でテント生活を送った。支援を続ける中で住民との交流が深まり、「一緒にコーヒーでも飲みますか?」から、「ご飯作ったから食べる?」などと声をかけられるようになり、ゆっくりと信頼関係を構築。そのうち「テントは寒いでしょう? 空いている建物があるから使ったら」と言ってもらえるほどになり、支援拠点として空き店舗が借りられることになった。「口約束ではいけない」と、きちんと契約書を作り、月々の家賃も設定している。
今では互いに困ったときは協力し合う関係。「自分たちのようなよそ者は、地元の人と一緒に動くのが一番。自分の思いだけで動くと迷惑をかけてしまう。人間関係をつくっていれば、『あの人の知り合いか』と話をしてもらえるさかい」と喜ぶ。
また、縁ができた福祉施設や地域で炊き出しをするために、熊本地震の際につながった熊本県西原村のNPO法人「にしはらたんぽぽハウス」が所有するキッチンカーを貸してもらおうと打診したところ、「ぜひ使って」と二つ返事をもらった。
関西などの仲間の協力も得て、珠洲や輪島で天丼やブリの漬け丼などを振る舞ったほか、石川のソウルフードのみそ鍋「とり野菜みそ」も提供。「こんなにおいしい炊き出しは初めて」と大好評だった。
岩下さんは、バングラ支援の傍ら、東日本大震災の際には宮城県女川町でボランティアのためのテント村を設立。熊本地震では、屋根にブルーシートをかけるなどの支援活動を長期にわたって行ってきた。
もともと予定していたバングラでの活動もあり、年明けから石川とバングラ、さらには熊本と、各地を走り回っており、息つく暇もない。それでも「目の前に困っている人がいたら助けるのが普通ちゃうかな」と言い切る。
そんな岩下さんが懸念するのは、これまで活動した被災現場と違い、一般のボランティアの受け入れが進んでいないこと。「今の状況では、復旧はかなりの長丁場になるのでは」と心配する。
道路状況や受け入れ態勢の問題で、「能登に来ないで」とメッセージが出され、自粛ムードも広がっているが、「いろんなことを言う人がいると思うけれど、気にしていたら何もできないし、自分の目で見ないと本当のことは分からない。やっぱり自分は『感・即・動』(感じたら、即、動く)。これが一番やと思う」。信念を胸に、現地の人たちと共に復興へと歩みを進めている。
拠点は申し出があれば他のボランティアも使えるようにしている。支援活動の協力は同法人のホームページ(https://www.pusjapan.org)から。岩下さん(090・7879・8067)。