「丹波の豊臣秀吉 家臣軍団と禁制札」と題した歴史講演会が兵庫県丹波市であり、柏原歴史の会の竹内脩会長(84)が、近江の「田邉家文書」を根拠に、秀吉に贈ったマツタケの話など、これまであまり知られていない史実を紹介した。約50人が聴講した。
秀吉家臣の田邉与左衛門ら3人が天正18年(1590)ごろ、有馬温泉に湯治に訪れた秀吉に見舞いとしてマツタケ200本を贈った。秀吉が3人に宛てた令状「豊臣秀吉朱印状」(尼崎市指定文化財)がある。竹内さんは、与左衛門が贈ったマツタケは「(丹波市青垣町)桧倉で採れたものじゃないか」と推察した。
与左衛門は、近江国生まれ。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。姉川の戦い、賤ケ岳の合戦などで武功を挙げた。秀吉の弟、秀長が天正5年(1577)、4000の兵を率い、生野銀山、竹田城を陥れた。その後、但馬から丹波の足立氏を攻め、山垣城を落とし、佐治市場を含む地域を平定するのに、与左衛門は関わったとみられる。秀吉は天正10年(1582)、氷上郡(現丹波市)のうち、青垣町の大名草、稲土、小稗、中佐治、野村、上竹田村などを与左衛門に与えた。
与左衛門に与えていた桧倉を大名草と替地する秀吉の天正19年(1591)9月21日の朱印状(名古屋市博物館蔵)が残っている。マツタケを贈ったのがこれより前で、ほかの2人はマツタケ産地外の人物のため、竹内さんは「マツタケを贈ったのは与左衛門で、桧倉産を贈ったのでは」と推察した。また、「丹波市で家臣に与えた秀吉の朱印状で残っているのはこれ一通」とした。
与左衛門の子孫は、滋賀県長浜市に根を張った。現当主、18代田邉隆さん(74)=浅井家顕彰会副会長=が講演会に参加。先祖の足跡を調べる中で隆さんが丹波市の柏原藩士に「与左衛門」の名を見つけ、2016年に丹波市を訪れて竹内さんと親交を結んだ。
マツタケ、替地は共に「田邉家文書」による。同文書により、史実が明らかになった。膨大な文書は解読中。父祖の地で行われた講演会に「多くの方の参加があり、感無量」と言い、「こちらに関係する資料が出てきたら、竹内さんに連絡します」と、新史実の掘り起こしへの期待を語った。
田邉家は、丹波市青垣町大名草に2軒残っているが、与左衛門との関係は不明。「田邉与左衛門」の墓と屋敷跡が同市柏原町柏原に残っている。隆さんの先祖の与左衛門と、「後の織田」に仕えた与左衛門が一族かどうかは分かっていない。




























