故郷の風土下敷きに
歌人 原谷 洋美 (はらたに ひろみ) さん (東京都杉並区在住)
1949年 (昭和24年) 丹波市山南町生まれ。 旧姓高田。 柏原高、 甲南女子大文学部卒。 大阪の大学で附属図書館司書をしばらく務めた後、 結婚により専業主婦となる。 歌集に 「馬を遣わす」 (2002年)、 「一陽来復」 (2006年) (いずれも短歌研究社)。
今年、 2冊目の短歌集を出した。 「乳癌から快復して2年。 病に向き合う魂を鎮めてくれた歌を集めました。 丹波の友人たちから 『歌に丹波が匂う』 と励まされています」。
「あっ、 と思うことが一日に何回あるか (俵 万智)」 という言葉をよく思い出すそうだ。 それを五・七・五・七・七に表現する。 「日常の事がらをそのまま詠むのではだめで、 見えない心を言葉にするのです」。
由良琢郎・元柏原高教諭が率いる 「礫の会」 東京支部会員8名が、 2カ月に一度集まって合評会をするが、 原谷さん以外は丹波に直接関係のない人たちばかり。 原谷さんの歌は 「独特の感性がある」 と評されるとか。 「丹波で生まれ育ったお陰。 子どもの頃体験した四季折々の行事や土着の文化が下敷きになっているのでしょう」。
高校では、 国文学班と由良先生指導の短歌同好会に所属していた文学少女だった。 大学入学後は万葉集研究者として著名な故・犬養孝教授に師事して短歌を続けた。 入学直後に投稿した歌で 「兵庫県知事賞」 を受けたが、 その後上手に作らなければという気負いとプレッシャーで、 続けるのが苦痛に。
犬養氏の仲立ちで結婚して上京した後は、 歌からすっかり遠ざかっていた。 二女の子育てがひと段落着いたころ、 高校の同窓会名簿に 「連絡先不明」 として掲載されているのを知った姉が、 現住所を通知してくれた。 すぐ由良先生から連絡があり、 以来、 歌にすっかりのめりこむ生活が始まった。 「丹波の女性の作品はすごいですよ。 生活に根付いているからでしょうね」 と、 丹波の短歌の高レベルに、 外に出て始めて気づいたという。
年3回、 墓参りに帰郷すると、 丹波弁の温かさにほっとする。 「お菓子を出したら、『ほなよばれよか』とかね」。
(上 高子)