司馬遼太郎と陳舜臣の対談「中国を考える」(文春文庫)を再読した。30年を経て今なお新鮮である。それによると「中江兆民はルッソーの『民約論』を漢文で訳した。抽象性の高い語彙を使おうとすれば、漢文に頼らざるを得なかった」。▼外国語を取り入れるのは日本の得意芸。同じ隣国でもモンゴルはいまだに中国文明を拒否していて、例えば「外相」ですむ言葉が、大和言葉で言えば「外の務めを果たすおとど」というように表わす。だからモンゴル語はとても長くなるという。▼明治になって日本では「哲学」、「文学」、「憲法」、「経済」といった西洋の概念を、それまでの漢語になかった言葉を造って次々に翻訳した。それが今度は中国に逆輸入される。「文明というものは相互に影響発展させあって共有すべきものだ」。▼また「中国が真剣に日本を研究しようとしたのは、日清戦争から日露戦争、大正初年ぐらいまでのわずか十数年だけ。その後の日本はずっと加害者としての存在だったから」。▼以下は春秋子の感想。「改革開放」後の今なお、中国の超エリートは競って米国に留学し、日本は軽視されているきらいがなくはない。しかし、日本にも同じことが言える。日中や日韓の外交関係の修復が課題になっている折、歴史認識の共有を初め、今一度このことを考えなければならない。(E)