沖縄食文化の一翼担う
(しおみ・のりお)沖縄県本部町在住
1944年 (昭和19) 丹波市氷上町沼生まれ。 63年柏原高校卒。 日本写真専門学校中退。 1973年に「山原そば」を開店。
「北部に、 山原 (やんばる) そばあり」。 沖縄県の県民食 「沖縄そば」 を語る上で欠かせない存在で、 味の善し悪しをはかる評価基準になっている。 築50年の古民家をそのまま使った店は 「売り切れごめん」 で、 午前11時の開店と同時に満席になり午後2時ごろに閉店する。 メニューは、 「ソーキそば」と「三枚肉そば」のみ。甘めの肉と、 ブタとカツオでとった深みのあるスープのハーモニーが、 そば好きをとりこにしている。
社会派カメラマンを志し、 各地を点々とした。 点の一つが沖縄だった。 復帰2週間後の1972年5月30日に那覇行きのフェリーに乗り、船中で一緒になった青年から「沖縄そば」という未知の食べ物の存在を知らされた。
パイン加工工場で働いていた時、 職場の先輩に連れられて行った店で、 沖縄そばのおいしさの洗礼を受けた。 同じ味を再現しようと、 スープを研究。 ダシと配合割合を変えた調味料をコーラ瓶24本に入れ、 一番好きな味を選んだ。 翌年にパイン工場の軒先を借りて営業を始め、75年に海洋博公園 (美ら海水族館) へ抜ける道路沿いに移転。 長く 「穴場」 だったが、 交通事情の改善で10年前にマスコミに 「見つかってしまった」。
人に任せられない性分で、 めんをゆでるところから盛り付けまで、 1人でこなす。 具は、 オーダーが通ってから自ら味付けをして出す。 味にバラつきがないよう、 一度に20人前程度のダシをとり、 これを日に何度も繰り返す。 「手間をかけているのが、 お客さんに伝わっていると思う。 沖縄そばは、 沖縄県の食文化の一つのピーク。 その中の一番高い所あたりにいて、 沖縄の食文化の一翼を担っているという自負、 誇りが支え」。
妻の秀子さんと、 100歳まで店を続けるのが目標。 「100歳になったら、 6日休んで1日だけ開ける。 幻のそば屋だな。 生き方の基本は、 柱はないけど、 欲張らない。 欲張らなければ、 お客さんは分かってくれる」。(足立智和)