「丹波の周産期の今、 むかし」 と題した座談会がこのほど、 丹波市氷上保健センターで開かれ、 産婦人科医師と助産師、 保健師が、 自宅分娩から施設での分娩へと変わっていった背景を学び、 「安全なお産」 と、 「お産の持つリスク」 について理解を深めた。
10月末で医院を閉めた元越川産婦人科医院院長の越川裕正医師、 柏原病院副院長 (産婦人科) の上田康夫医師、 同病院主任助産師の塩見市子さんと同病院助産師の挽地まさ代さんの4人が、 パネリストを務めた。
自宅分娩以上の安全性を求め、 氷上郡各町が、 昭和30年代半ばから相次いで助産師による母子健康センターを開設、 自宅から施設へと分娩が変わった。 当初はセンターの利用が多かったものの、 事故が起こるなどし、 より高い安全性を求め、 診療所や病院など医師がいる所で出産するようになり、 10年から15年ほどでセンターの助産業務が休止された歴史を振り返った。
越川医師は、 「助産師さんが医師を呼んだが、 母体を助けられなかったことがあった。 助産師さんは大分苦情を言われ、 気の毒だった。 事故をきっかけに利用する人も減り、 常勤の医師もいないので、 役割が終わったとして町が (センターを) 閉めてしまった。 産婦人科医を始めた頃は、 まさか通常分娩をどんどん医者が診るようになるとは思わなかった。 最初の10年ぐらいで 『時代が変わったなあ』 と感じた」 と述べた。
また、 全国的な産婦人科医不足のあおりで言われる助産所の活用について越川医師は、 「経験から言うと、 最初はいい。 しかし、 1つ何かあると腰が引け、 医者にどんどん負担がかかる。 助産所は助産師も、 助けに行く医師も両方しんどいのでは。 病院や診療所から独立した建物でやるのは無理」 との見解を示した。
上田医師も、 「なくなった母子センターの復活を考えるようなもの。 人の安全への意識は変わらない。 ニーズがあり、 どうしてもやれと言われるなら院内助産所。 離れた所ではできない」 と語った。
母子2代で助産師という挽地助産師は、 「母親は自宅分娩、 母子センターを経て、 勤務助産師をしていたが、 最後が一番安心して仕事ができていたように思う。 お産では、 出血が一気に500ミリあったり、 胎盤が40分間出ないなんてこともある。 医師がいる安心感があるから助産師を続けられている」 と述べた。