2012.04.14
丹波春秋

 幕末の志士らに多大な影響を与えた儒学者、佐藤一斎に「月を看(み)るは、清気を観るなり。花を看るは、生意を観るなり」との言葉がある。月は、清らかな気を観賞するもの。同様に花を見るのは、生き生きとした花の心を観賞するのであり、花の色や香りなどではない、という意味だ。▼月の清らかさに、自分の心も清らかにする。花を見て、花の生気を自分の心に取り込む。古来、月と花が愛される理由を端的に言い当てているが、花はやはり、今が盛りの桜にとどめを刺すだろう。▼桜ほど、生気を与えてくれる花はない。だからこそ、『武士道』を著した新渡戸稲造も、桜を見るとき、私たちはしばし労苦と悲哀を忘れて、「新しき力と新しき決心」を得るのだと書き、桜は「我が国民性の表章」とした。▼ただ桜には、「咲く桜」もあれば「散る桜」もある。誰にも等しく死が訪れることを教えてくれる良寛の句、「散る桜残る桜も散る桜」にあるように、散る桜には死が重なる。咲く桜が生なのに対して、散る桜は死。桜は、生と死は表裏一体とする「生死一如(いちにょ)」を象徴している花と言える。▼「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」。生気を与えてくれる「咲く桜」はもちろんいいが、「散る桜」にも心が動き、しみじみとした思いになる。(Y)

 

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