本紙コラム「望エン鏡」(5月26日付)に、今ごろの子どもには、「ふりがながなければ何と読むのか見当もつかない」ような名前が目につくとあった。これは、執筆者の河合雅雄氏のみならず大方の感想だろう。▼ただ、難読の名前は今に始まったことではないようだ。たとえば「徒然草」に、才知のあるところをひけらかすような名づけは嫌味であり、「人の名前に見慣れない文字をつけようとするのは無益なことだ」とある。▼時代はくだって、本居宣長も同様のことを書いている。「すべて名は、いかにもやすらかなる文字の、訓(よみ)のよく知られたるこそよけれ」。読みづらい名前は昔にもあったことがわかるが、兼好も宣長も、難読の名前に眉をひそめていたこともわかる。▼河合氏は、コラムで「名前は子どものものであって親のものではない」と書かれていた。まったく同感だ。名前は、その本人が死ぬまで背負っていくもの。その基本は忘れないでいたい。▼名前は子どものものであると同時に、公のものでもある。思想家の内田樹氏が「私の名前は私自身にとっては用がない。用があるのは、私の名を呼ぶ他人だけである」と書いている。的を射た理屈だ。思わずうなってしまう名前が少なくない昨今。「太郎」というありきたりの名前がかえって新鮮に思える。(Y)