亡くなるまで3年間、寝たきりで精力的に創作活動した正岡子規は、暑い夏をどう過ごしたのか。残暑見舞葉書に「子規の病床に扇風機はあったでしょうか」と書いたら、友人が「病床六尺」の一節を返信してきた。▼「この頃の暑さにも堪へ兼て風を起す機械を欲しと言へば、(河東)碧梧桐の自ら作りて我が寝床の上に吊りくれたる、仮にこれを名づけて風板といふ」。逝く2か月前、明治35年7月の日記だ。▼「風板引け鉢植えの花散る程に」の句も添えられているが、俳人坪内稔典氏によると風板なる記述は以後出て来ないので、効果はあまりなかったのではという。扇風機は明治30年代には日本で販売されていたらしいのだが、高価過ぎたのだろう。額に汗を滲ませる子規の顔を思い浮かべていたら、「でも今ほど暑くはなかったと思いますよ。東京でも家が建て込んでいないので、自然の風が入ってきたでしょう」と坪内さん。▼亡くなる1年前の「仰臥漫録」には、「黙然と糸瓜(へちま)のさがる庭の秋」「日掩(ひおい)棚糸瓜の蔓の這ひ足らず」。9月、残暑が続いていたろうが、どこか落ち着いた気分も漂う。「年中病気の自分は病気を楽しむのだ、というのが彼の言い分」(坪内氏「柿喰ふ子規の俳句作法」)。▼つまるところ、文明が発達するほど人は不幸になるのか。(E)