人間は管より成れる日短(ひみじか)―川崎展宏(てんこう)の句。恐らくは病院で、自分の身体が管で出来ていることに気付かされ、冬の日暮れが我が老い先に重なり合ったのだろう。▼管は長くて複雑だが、およそ2系統。1本は入り口がまた出口になり、もう1本は出口が2つに分かれている。人体を構成する60兆個の細胞は、これらの管で酸素を取り込み、飲食物を吸収し、共に残滓を排出することによってその新鮮さを維持できる。▼生きている限りこの作業は続けられ、管は中間部は勿論、入り口が詰まっても出口が詰まっても細胞を危機に陥らせる。こんな当たり前のことが普段、ほとんど意識されず、ことに出口の方は、異常が起き未曽有の苦しみを味わって初めて意識される。普段意識せずとも生きていけるということは、やはり人は何者かに生かされているからだろうか。▼私事で恐縮だが、筆者は今年初めて入院を体験し、管の存在を十分に意識した。全快した途端、愚かにもまたその意識は薄れつつあるが、ともあれ、誰しもこのようにして少しずつ死に向かう。▼「70歳を越えればいかに良く死ぬかを考えろ」と言われるのは、誠にその通り。しかし、くたびれた管を抱えながら、生かされている限りは生きていかねばならない。読者諸兄姉、願わくば、来る年も良く生きていかれるよう。(E)