柏原の歴史

2014.04.10
丹波春秋

 柏原ライオンスクラブの50周年記念誌で編集を担当した。柏原藩初代藩主、織田信包(のぶかね)の石像を丹波市に寄贈・設置したのにちなんで、信包や藩の歴史について書いた。▼信包は信長の弟だから当然ながら、関連系図には錚々たる人物が並ぶ。妹の市(いち)、その娘、淀殿に江(ごう)。淀殿と秀吉の子が秀頼。江は2代将軍秀忠の妻で家光の母。また娘和子は皇室に嫁ぎ、明正天皇の母となる。▼信包の系統は3代で途切れ、別の信長子孫が大和から転封されて後期織田藩となるが、たった2万石の貧乏藩ながら幕末まで生き延びた経緯は興味深い。▼領地は氷上郡内のごく一部。江戸の火消し役や大阪の大和川改修工事にまで駆り出され、財政はたちまちひっ迫して藩札発行でしのがなければならなかった。質素倹約し改革に乗り出す名君が出るが、中には女色や浪費にかまける殿様もいて、家臣らは大変だったろう。▼しかし幕末には小島省斎や津田要らがしっかり舵取りし、いち早く藩を勤皇コースに乗せる。明治2年の写真に残る最後の藩主、信親(のぶちか)は弱冠19歳。実に健気な顔だ。しかし維新に果たした功で柏原は新政府に厚遇され、田艇吉、健治郎兄弟を初め逸材を輩出。近代化の波に後れを取ることがなかった。これら連綿と続く歴史の上に現在の町がある。(E)

 

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