福知山明智光秀公研究会のツアーで京都市北郊、京北町の周山城へ。若狭に通じる要衝の地に、光秀が急峻な山を切り開いて作った。江戸期には麓に、飛び地を領していた篠山藩が代官所を置いている。▼切り立った崖を斜に縫いながら1時間。草に覆われた馬屋跡の石垣が見えてきた。大きな石が崩れている道をさらに進み、百四方の本丸跡にたどりつく。今はうっそうとした杉林に囲まれ、下界は見渡せないが、想像図を見ると、尾根筋を巧みに使って四方に足を伸ばした、いかにも攻め難そうな形だ。▼光秀は茶人の津田宗及と天正9年にここで月見をし、「月は穐(あき)秋は美山の今宵哉」と発句、宗及が「宮古人月と酒とのこよいかな」と結んでいる。研究会の山口正世司会長によると、光秀は中国古代に善政を敷いた王にちなんで「周山」と名付けたとか。▼山麓の慈眼寺で村人が秘かに祀っていた光秀の木像を拝観。眼球がキッとにらみ、“逆臣”の汚名をはばかって真っ黒に塗った墨が一部剥げて桔梗の紋がかすかに見える。往路に寄った園部の曹源寺では、本尊釈迦如来の厨子の留金に桔梗紋が施され、こちらは光秀が、同地で波多野勢と激しく合戦した後、地元に迷惑をかけた償いとして寄進したそうだ。▼光秀の人となりと共に、それを後世に伝えてきた人々の心に触れた。(E)