明治32年、市島町下竹田に生まれ、日商岩井の初代社長や日本バレーボール協会会長を務めた西川政一の著書「伸びゆく葦」を最近読んだ。日本経済新聞に連載した「私の履歴書」などを収録したものだ。▼印象に残った一つが竹田小学校時代の思い出。「思い出は尽きないが」と断りながら、思い出の筆頭に「絶対に忘れ得ぬ人」の名前を挙げている。3年間、西川らの担任を務めた吉見伝左衛門だ。伝左衛門の下宿先をたびたび訪ね、「先生の人格に直接触れていろいろ教えを請うた」とある。▼伝左衛門は市島町の鴨庄の生まれ。小学校教諭のあと鴨庄村長を務め、「丹波の農聖」とたたえられるほどの大事業を成し遂げた。大規模なため池の築造もその一つだ。村人らの猛烈な反対にあいながらも、日照りの困窮から村を救うため難事業を敢行した。「断じて行えば、鬼神もこれを避く」の気概で臨んだとされる。▼一方の西川は、小学校高等科卒業で鈴木商店に奉公に出る。それが人生航路の船出で、幾多の荒波を経験しつつ世界貿易に情熱を注ぐ生涯を送った。▼西川の信条の一つは、常に前向きにチャレンジし、「仏に会えば仏を殺す」の気概を持つことだった。恩師の伝左衛門の気概と通じるところがある。この師にしてこの弟子あり。師弟の人間的なつながりを感じさせる。(Y)