植野記念美術館で画展を開催中の原田泰治さんが子供の頃、開拓民の一家は貧しく、高台の陸稲の田んぼはほとんど収穫がなかった。父は長い横穴を掘って水を通す決心をし、モグラのように這いながら掘り進んで手製のトロッコで土を運び出した。▼途中、大きな石にぶつかって進めなくなった頃に参観日があり、父は音楽の時間、木琴が買えない泰治さんだけが紙に描いたのを演奏していることを知った。▼借りてきた実物を父が真似て作った木琴は、でこぼこだがとても良い音がする。穴ぐらに立ちはだかる大石の前で思案する父を、泰治さんは木琴をひいて励ました。岩を杭で支えて下をくぐり抜けられることに気付き、2年がかりで40のトンネルが貫通。水が流れ出してから2年後、水田が出来て一家総出で田植えをした。▼泰治さんは、2歳の頃亡くなった母の後に来た継母のことを、中学生になるまで実の母と思い込んでいた。親戚の人が漏らした言葉で知った彼の詰問に、継母はきっぱりと首を振り、「このお乳であんたを抱いて風呂に入れてたんだ」と言い張った。▼泰治さんは自分が描いた絵を、売らずに全て自分で保管している。ただ、80歳を過ぎて小さく小さくなって棺に納まった継母が、生前に大変気に入ってくれていた1枚だけは、天国まで持って行ってもらった。(E)