日展を離れて間もない常岡幹彦画伯を埼玉県飯能市の自宅に尋ねたのは、1970年代の初め。40歳過ぎの頃で、農家の土蔵を借りたアトリエで黙々と描いておられた。▼住み慣れた東京を捨て移ってきた山深い土地の暮らしを楽しんでいるように見受けたが、「ここも、すぐ近くの丘陵で住宅開発が始まっている。いずれもっと奥へ追われる羽目になるかも」と苦笑。▼その通り、しばらく後に落ち着かれたのは、無人の電車駅の沿線。果樹畑の真ん中にぽつんとあるこの家では、いつもベートーベンやショスタコーヴィチのヴァイオリンのレコードがかかっていた。「今の絵には響(ひびき)がない。魂の表出が欠けている」とも。▼98年、植野記念美術館での父文亀氏との「父子展」のオープニングでトークした際、「丹波に疎開した中学時代、動員で毎日炭焼きに山へ入らされたが、霧が立ち込めた山肌の様子が関東とはまるで違っていた。この時の感受性が私の仕事の原点」と話された。▼台北の故宮博物院で范寛の絵と出会ってから、宇宙空間を望む「玄」の追求へ。そして「白い紙の上に黒一色で描き通したい。単なる墨絵ではなく」と漏らしていた常岡さん。ずっと支えてくれた奥様を昨年亡くしたのも応えたのかも。天国で「玄」の完成を果たしてほしい。(E)