勝海舟は子どもの頃、野良犬に股間をかまれた。医者が「今晩持つかどうか」と言うほどの重傷を負った海舟を、父親は献身的に看病した。荒くれ者の父だったが、手術から傷がいえるまでの70日間、父親は毎晩、近所の寺で水をかぶって回復を祈り、夜も昼も息子を抱いて添い寝をしたという。▼「おやじに七十日も添い寝をされれば、海舟はおそらくうんざりするほど、父親の男っぽい匂いをかいだことだろう」と、文芸評論家の江藤淳は書いている。江戸開城前後の修羅場を海舟が乗り切れたのは、「このときの記憶が彼を助けたからだと、私は思っている」という。▼嗅覚を侮ってはならない。たとえば、魚のサケ。産卵をするために母川に帰ってくるサケは、川の匂いから故郷の川を探し当てると聞いた。この嗅覚の底知れない力を思うとき、父親の匂いの記憶が海舟を支えたという江藤の説は真実味を増す。江藤は、「おふくろの味」に匹敵する言葉として、「父親の匂い」があってよいとも書いた。▼「におい」は「臭い」とも書く。臭いは「不快なくさみ」のこと。「加齢臭洗って干しても取れません」という川柳がある。父親のにおいは、匂いではなく臭いとして嫌われている昨今だろうか。▼加齢臭を放つ年頃の身にとって切ない話だ。きょうは「父の日」。(Y)