鉄道国有法

2016.09.03
丹波春秋

 明治39年、鉄道国有法が公布された。高校の日本史教科書に、「政府は軍事・経済上の必要から、日露戦争直後の1906年に鉄道国有法を公布し、主要幹線の民営鉄道17社を買収して国有とした」などとある。

 教科書にも登場する鉄道国有化の裏側には、柏原生まれの田艇吉、健治郎兄弟のドラマがある。艇吉は阪鶴鉄道の開通に尽力し、社長を務めた。対して健治郎は、逓信次官として鉄道国有法案を起草した。

 明治39年当時、阪鶴鉄道を含め民営鉄道は38社あり、総延長は5287キロ。一方、官線の延長はその半分もなかった。鉄道会社によって車両の規格などがまちまちの上に、鉄道網が細分されていることは軍事輸送や経済発展の障壁となっていた。このため健治郎は鉄道国有化を持論とし、実現に向け力を注いだ。

 国有化は難問だった。加藤高明外相は、人民の既得の財産権侵害や、国有による経営困難などを理由に、法案に反対し辞職するなど賛否が分かれた。艇吉は、阪鶴鉄道を買収対象から除外するよう国に求めた。しかし、その思いはかなわず、法案が可決。明治40年、阪鶴鉄道は買収された。阪鶴鉄道が鉄道事業を経営した期間は8年間だった。

 鉄道国有法の公布から今年で110年。艇吉、健治郎兄弟の足跡を呑みこんで今がある。(Y)

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