今年は、夏目漱石の生誕から150年。丹波地方には漱石と関わりのあった人が少なからずいる。私立鳳鳴義塾の第3代塾長を務めた赤木通弘もその一人だ。篠山市出身の大安榮晃さんが書かれた論文を読み、最近知った。▼明治31年3月に鳳鳴義塾の塾長に着任した赤木だが、その2カ月前まで熊本の第五高等学校で英語を教えていた。そのときの上司が5歳年上の漱石。赤木は帝大(東大)卒業後、漱石に誘われて五高教師となった。▼哲学科専攻の赤木だが、英語力は相当なものだったろう。しかし、当時の英文学のトップランナーだった漱石にすれば、赤木の英語教育は歯がゆかったようだ。大安さんは、漱石の指導を全面的に受け入れるか、漱石も一目置くほどの英語力を持っていない限り、漱石主任下での英語教師はやっていられなかったという。▼赤木は任にたえられず、五高を去った。「どれほどのプレッシャーを赤木にかけたか。これでは、赤木は居場所もなくなり、神経衰弱になろうというものである」と、大安さんは書いている。▼赤木は明治35年9月まで鳳鳴義塾の塾長を務めた。隣の氷上郡では34年に、島崎藤村の小説『破戒』のモデルと言われている大江礒吉が旧制柏原中学校の2代目校長に就任した。赤木と漱石、大江と藤村。興味をそそられる。(Y)