明智光秀の戦国武将としての一大事業だった丹波攻めによって制圧された兵庫県丹波市には、丹波攻めにまつわる悲話の伝承がいくつも残る。
水源を明智軍にもらした老婆
“丹波の赤鬼”との異名をとった赤井悪右衛門直正が城主として君臨した同市春日町の黒井城。山頂に構える山城だった黒井城を落とすのに手を焼き、攻めあぐねた光秀軍は、一計をめぐらし、城の生活用水を止めることを考えた。
しかし、必死で水源を探したものの、見つからない。そんな時、ある老婆がうっかりと水源のありかをもらしてしまう。
水源を知った光秀軍によって城への樋水路が壊された黒井城は天正7年(1579年)、ついに落城。後日、赤井軍の残党が城の生命線であった水源をもらしたこの老婆を含めた一族を殺害した。
時を経て、老婆の血筋の者がその死を悼んで供養塚を建てた。その一つが、「禄老爾(ろくろうじ)権現」。山城の黒井城跡が遠望できる同市市島町美和という村里にひっそりと祠がまつられている。
左肩のない地蔵さん
同市市島町美和にはほかにも丹波攻めの悲話を今に伝えるものがある。「肩切(かたぎり)地蔵」だ。この地蔵の左肩が切り落とされたような形をしていることから「肩切地蔵」と呼ばれている。
黒井城落城後、赤井軍の一人の武将が血路を開いて美和の村まで逃げ延びたが、籔の陰で待ち伏せしていた明智軍に切り伏せられた。村人たちは、おののきながら遠くからその様子を見ていた。
村人たちは、武将をねんごろに葬るとともに供養として地蔵をたてた。その武将は、自分たちの村を巡検していた心やさしい人物だったからだ。肩がない地蔵は、明智軍によって切り殺された武将の痛々しい姿を伝えているかのようにも思える。
天下を我が手にと、争いを繰り広げた戦国武将たち。その華々しい勇姿の陰には、名もない者たちのおびただしい死がひそんでいることを各地に残る悲話が教えてくれる。