戦国武将・赤井直正の武勇と野望 「光秀」の名削られた碑を現代語訳/兵庫・丹波市


丹波市の中川英明さんが描いた赤井直正のイラスト

 兵庫県丹波市の国指定史跡「黒井城跡」の登山道途中にある、戦国武将の同城主・赤井(荻野)悪右衛門直正の招魂碑。漢文で刻まれた碑の中で、直正と戦った明智光秀の名が何者かによって削られているが、そもそも碑には何が彫られているのか。現代語訳した文献が見つけられないため、丹波新聞社は丹波市文化財保護審議委員の山内順子さんに解読を依頼。そこからは、光秀との戦で「斬首三百級」をあげた武勇だけでなく、直正の野望や性格の一端が垣間見えてきた。

碑の中で削られた「光秀」の名

 天正年間、織田信長の命を受けた明智光秀が、丹波国平定戦「丹波攻め」を繰り広げた。同3年、同国に覇を唱えていた黒井城主・赤井直正との戦いでは、直正が光秀軍を挟み撃ちにする戦法「赤井の呼び込み戦法」を展開し、光秀は敗走した。同6年、光秀は再び丹波国を攻め、直正を病で失っていた赤井方を破り、黒井城は落城した。

 招魂碑は文政2年(1819)の建立。光秀の名は「丹波攻め」を紹介した部分で5カ所刻まれており、うち3カ所で名が削られている。その理由は、丹波攻めでかつての領主が討たれたことに対する地元住民の憎しみか、村を焼かれた「恨み」か、それとも「いたずら」か。

中国の故事「望蜀」が刻まれている部分

おじ殺害、配下も領主望む

 「公の諱は直政(正)小字(幼名)は才丸」から始まる漢文。直正は「幼いころから強く勇ましく胆力があり、策略にたけること人を絶する」とあり、「頭角は高く抜きんでていた」と刻まれている。直正は黒井城主だったおじの荻野秋清を殺害することで同城の乗っ取りに成功し、「悪右衛門」を名乗るようになったとされているが、碑ではこれついて、「(直正の)麾下にある者の多くは、直正が領主になることを望んでいた」と紹介。さらに、直正自身も「望蜀之意(さらに次の望みを持つこと)がなかったわけではない」としている。山内さんによると、「望蜀」は中国の故事から取った言葉で、教養の高さがわかる漢文という。

光秀方の「堀部兵太」が討たれたとされる鼓峠

「丹波攻め」直正側被害は「8、9人」?

 丹波攻めの際の「赤井の呼び込み戦法」に触れた部分では、「(赤井軍は光秀軍を)挟んで鏖(みなごろし)にし」とあり、「堀部兵太」という人物を討ったほか、「斬首三百級」と刻まれている。一方で直正軍の被害は「八、九人」と紹介している。光秀軍を撃退できたのは、「公(直正)の英武と黒井城の険しさ、策謀によるもの」としている。

 篠山市の「西紀町史」や、同市草山郷づくり協議会による「村史」(復刻版)によると、退却を図った光秀が同市の「鼓峠」を通った際、同市の八上城主・波多野秀治勢の細見氏、畑(畠)氏の襲撃を受け、「堀部兵太夫」(または堀兵太夫)が討たれたとある。この人物の首は峠にあったケヤキにさらされ、のちに葬られて「兵太塚」と呼ばれたと書かれている。招魂碑に登場する「堀部兵太」と同一人物と推測できる。

ひっそりとたたずむ赤井直正の招魂碑

腫れ物患い、3月9日死去

 碑では、直正の最期についても触れている。「天正六年春、疔(腫れ物)を患い、三月九日に亡くなった」とし、「(直正の)死後も軍が乱れることはなかったものの土地は荒廃し、埋葬された場所は不詳」とある。

 黒井方のその後については、「直信(直正の弟・幸家)が立ったが、士気は衰え、国勢は日に日に蹙り(窮屈になり)」とし、直正を失い勢いをなくした状態を表現。光秀が再挙し、「兵が来寇し、力に屈して勢いが窮まり、黒井城は夷(敵)のものとなった」と刻まれている。