明智光秀が築いた城跡? シカが草食べ、姿あらわに 謎の山城を追う(上)/兵庫・丹波市


上空からドローンで撮影した八幡山。山中に残る遺構は、光秀によるものだったのだろうか=兵庫県丹波市柏原町柏原で(空撮アーティスト・前田太陽さん提供)

 

 兵庫県丹波市柏原町の柏原八幡宮がある八幡山(入船山)に残る山城跡。2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公として描かれる戦国武将・明智光秀が築いたとも伝わるが、昭和50年代の兵庫県教育委員会の調査で初めて正式に存在が確認され、「八幡山城」と名付けられるまでは名前さえない”名無しの城跡”だった。調査以降も、諸説ある上、史料の少なさから地元でもその存在を知る人は少ない。近年、シカが下草を食べることで、より遺構がはっきりとわかるようになるなど、まるで大河に合わせるかのように姿を見せ始めた謎の山城を追った。

「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」にある八幡山城跡の縄張り図

「神社壊し、城を築城」

 1982年(昭和57)に県教委がまとめた「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」で、「八幡山城」として、初めて公的に取り上げられた。県内全ての中世城館・砦跡と主要な荘園680件について、3年がかりで調べた報告書で、各地域で地元の歴史研究家らが調査に協力している。

 同報告書は、八幡山城は、現在の神社社域と雑木地にあった城で、創築者は明智光秀と記述。城史の項には「織田信長の軍将として西丹波平定にあたった光秀は、(氷上郡、現・丹波市と多紀郡、現・篠山市の境にある金山に)金山城を築いて拠点としていたが、氷上郡進攻の前進拠点として、柏原八幡社殿と付属建物を壊して城塞を築いた」とあり、「神殿を壊したのは、郷民に畏伏感を抱かせることを狙ったと考えられる」と考察している。

柏原八幡宮の三重塔北側に確認できる堀切の遺構。敵の侵入を防ぐ目的で尾根筋に掘られている

長くてわずか3年、短命の城

 天正7年(1579)、光秀と地元の波多野宗貞との「八幡山での戦い」で社殿などが焼失したとされており、この後に八幡山城が築城された可能性がある。また、天正10年(1582)、光秀が信長に対して反旗を翻した「本能寺の変」後に、光秀を討った豊臣秀吉配下の地元、黒井城主・堀尾吉晴が普請奉行を務めて神社を再建している。

 これらから考えると、天正7年ごろに光秀が陣城として八幡山城を造っていたとすれば、長くてもわずか3年ほどという短命の城だったとみられる。

 八幡山城跡の中心遺構は、柏原八幡宮の社域を城地とする南半分と、大きな堀切(山肌などを削って溝にしたもの。空堀とも)を隔てて尾根に築いた連郭部。報告書は「短期間に築造した臨時の城としては規模も大きいし、構法もすぐれている」と評価、「地元の反織田勢力の拠点だった高見山城や穂壺城の近くにあり、進攻の格好地だった。城の歴史は短かったが、果たした役割は極めて大きかった」とまとめられている。

八幡山のあちこちにみられる平地の曲輪跡。近年、シカが下草を食べ、遺構がはっきり現れた

シカ出没増で曲輪群はっきりと

 八幡山城跡には、高い石垣が残る金山城跡のように、織田・豊臣系城郭の特徴は確認できないが、平らに開けた曲輪(土塁や石垣、堀などで区画した区域)状の遺構が多数見られる。同神社の千種正裕宮司によると「近年、山にシカの出没が増え、下草などを食べ尽くしたため、以前は埋もれていた曲輪群の遺構がはっきり見えるようになってきた」のだという。

 県教委の報告書には、光秀築城と書かれているが、断定できる根拠は見つかっていない。果たして光秀が築いた山城だったのだろうか。貴重な一次史料をひも解き、さらに調査を進めた。=つづく=