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兵庫県丹波市柏原町の柏原八幡宮がある八幡山(入船山)に残る山城跡。2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公として描かれる戦国武将・明智光秀が築いたとも伝わるが、昭和50年代の調査で、「八幡山城」と名付けられるまでは名前さえなかった。この”名無しの城跡”が、「光秀築城」と伝わる根拠はどこにあるのか。
吉田兼見「光秀と城中同行」「鮭もらう」
柏原八幡宮周辺に光秀が城を築いた根拠として、京都府・大山崎町歴史資料館館長の福島克彦さんが挙げるのが、京都・吉田神社の神官、吉田兼見による日記「兼見卿記」だ。兼見は光秀をはじめ、織田信長、豊臣秀吉、足利義昭などと交友があり、その日記には当時の政治情勢などが詳細に記されているため、同時代に書かれた貴重な一次史料となっている。
天正7年(1579)10月の欄に、「加伊原(柏原)新城を普請中の光秀を見舞った」との記述が出てくる。
兼見は10月12日に加伊原に到着、光秀は山から下りてきて面会したという。兼見は小袖を持参して、光秀と城中を同行し、夕食をとった。この日の夜は、光秀家臣の佐竹出羽守の小屋で宿泊した。翌日も面会し、「鮭5匹を土産にもらって帰路についた」とある。
福島さんはこの「加伊原」という地名に着目。「『加伊原新城』は、八幡神社境内に一時、光秀が築城した八幡山城のことだと考えられる」としている。
この「加伊原新城」についてはこれまで、同じ柏原町内にあり、光秀が築いた金山城(金山頂上)を指しているという見解が多かった。
しかし、福島さんは、「確かに、合併前の行政区域としては柏原町域に入っているが、前近代において、郡境にある金山までを『加伊原』と呼んだのかという素朴な疑問がある」とする。
加伊原新城が出てくるのは天正7年10月。隣接する篠山市にあり、波多野氏の居城だった八上城はこの年の6月、丹波市の赤井直正の黒井城は同年8月に落城しており、一応の丹波平定は終わっている。
とすれば、兼見が訪ねた「新城」は、これから平時のまちを治める拠点ということになるだろうか。それとも、反織田方の残党を抑えるためにつくっていたのだろうか。
謎残る「金山」と「八幡山城」の関係
金山城と八幡山城の関係については、よく分かっていない。金山城は、八上城と黒井城の連携を断つため、天正6年(1578)、両城が見渡せる金山山頂に光秀が築いたとされている。
「丹波戦国史」では、慶安3年(1650)の文書を参照しながら「光秀が丹波攻略の拠点として柏原八幡山にあった城塞の材を移して、急造したのが金山城といわれている」と記している。また、柏原八幡宮の縁起資料には、光秀が八幡山城に築いた城は天正9年(1581)9月に金山城に引き取られたと記されているが、定かではない。
このほか、1988年(昭和63)発行の「丹波の城」によると、「八幡山城は、荻野安芸守が足利氏に抗戦して築いた砦」とあり、室町時代に造られたという説もあるようだ。
丹波市教育委員会文化財課は「八幡山城については、『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』により曲輪や堀切の存在が確認されており、城郭遺構として周知されている。しかし、一次史料に八幡山城の記述がないため、明智光秀によって築かれた陣城であるというのは、伝承の域を出ない」との見解だ。
福島さんは、「柏原は織田藩の城下町として知られるが、もともとは柏原八幡宮の門前町があり、古市場という地名も残る。都市があったことに目を付けて、光秀は柏原に拠点をつくろうとしたのでは。光秀の話題を契機に、織田藩以前のまちについて考えることにつながれば」と言う。
神社境内地にひっそりと残り、一部の人だけが知る存在だった八幡山城跡。光秀と丹波とのかかわりが注目されている今、再考の時なのではないだろうか。
千種正裕・柏原八幡宮宮司は「(神社を焼いた)光秀に対してはいい感情は持っていないが、陣城があったのは事実。地域の研究者らにより、事実がよりはっきりすればいいと思う」と話している。