1904(明治37)年に開通した大阪と京都府北部の舞鶴を結ぶ阪鶴(はんかく)鉄道の歴史に関する講演会が1月26日、兵庫県丹波市市島町で開かれた。鉄道OBの井上英道さん(77)=同町=らが様々な資料や写真を使って詳しく説明し、開通に至るまでの経緯などを紹介。50年前に発生した脱線事故についても、当時の生々しい状況を紹介した。
当時使用のレアなレールも紹介
阪鶴鉄道の当初計画では、兵庫県内の駅は「三田―藍本―草野―古森―当野―篠山町西町近く―宮田―柏原」だったが、「乗り合い馬車、人力車の営業が成り立たなくなる」、「火の粉で家が燃える」といった反対運動が同県篠山町内(当時)に広がった。その時、同県の古市駅、丹波大山駅、谷川駅などの近くの住民が土地を無償提供し、誘致運動を活発化。「反対の強かった当初計画は立ち消え、現在の路線になった」とエピソードも披露した。
また、当時京姫鉄道(京都―園部―篠山―姫路)の計画もあったが財政上の理由から中止になり、篠山町(当時)は両路線からはずれたという。その後、1915年(大正4)に篠山軽便鉄道が開業し、後に篠山鉄道(現篠山口―当時の篠山町)と改称。1944年(昭和19)の国鉄篠山線(篠山口―福住)開業で、篠山鉄道は廃止。あとを受けた篠山線が72年(昭和47)に廃止に至るまでの道のり、大阪―篠山口の福知山線複線化の実現、篠山口以北の複線化の課題を語った。
阪鶴鉄道が1899年(明治32)に福知山まで開通した当時の賑わいぶりを伝える日出新聞(現京都新聞)の試乗記も紹介。「乗り込む人、観る人、ますます多し、今は動き出しても立ちたる人が揺れぬほどの込み具合、進行中に吹きいる風さえもなし」とあり、汽車が珍しかった当時の様子が分かる。
井上さんは、同県の市島駅で見つかった阪鶴鉄道建設当時に使用されたと見られる「明治二十九年アメリカ・カーネギー社製作・阪鶴」とローマ字で書かれたレールの一部、列車到着時に駅員が機関助士から受け取る通票など展示品を手に取って披露した。蒸気機関車からディーゼル、電化へと移行する動力の近代化についても言及した。
昭和に脱線事故、車両が川に乗り出すも乗客無事
講演会では、1968(昭和43)年12月20日、国鉄福知山線の下滝―丹波大山駅間の兵庫県山南町阿草で発生した脱線事故についても触れられた。この事故で、車両は線路わきの川に落下寸前で停止し、250人以上だった乗客の命は助かった。この急行の運転助手を務めていた和久敏郎さん(77)=市島町=が、あわや大惨事となるところだった事故の体験を語った。
和久さんが体験を公の場で語ったのは初めて。当時の新聞記事によると、午前4時54分に出雲発大阪行き急行「だいせん4号」(12両編成)が山南町阿草で、線路の上に崩れた土砂に乗り上げ脱線。濃霧で視界が見えにくく、運転士が事故現場の手前約20メートルで土砂崩れを確認し、急ブレーキをかけたが間に合わず、ディーゼル機関車と客車一両が篠山川に半分身を乗り出すようにして止まった。
和久さんは当時27歳。負傷した運転士と一緒に衝動ブレーキをかけ、付近のまくら木を掘り起こして二重の車止めをするなど応急措置を施した。火災の危険性を察知し、まず最後部のボイラーを止めた。乗客269人の無事を確認したあと、電話が通じなかったため、約2キロある下滝駅に事故を知らせようと濃霧と暗闇の中を走った。
「途中で線路から道路に出た時、たまたま通りがかった単車を止め、後部座席に乗せてもらい駅に到着。事故を報告し、救援を要請した」という。「無我夢中で顔などに負傷したことは覚えていない。それにしても、あそこで列車がよく止まってくれた。機関車が落ちていたら客車も止まれたかどうか。当時を思い起こすと今も背筋が凍るが、乗客が無事だったことが何よりだった。今日まで元気でいられることに感謝のほかない」と語った。東西線開業時の試乗運転の運転士もつとめ、56年間、国鉄、JR一筋に歩み退職。「この事故が一番忘れられない出来事」という。