昭和後期に火葬に変わるまで、兵庫県丹波市(旧氷上郡)では一般的だった土葬。同市柏原町北中自治会でかつて、なきがらを墓地に運ぶのに使っていた坐棺用の「輿」が近く、処分される見通しになった。半世紀近く前に引退した後も、墓地近くの保管庫で眠っていたが、傷んだ保管庫が解体予定で、保管場所がなくなる。昔の習俗を伝える民俗文化財である一方、この先使うこともない。放置したような形で保管し続けるのもいかがなものか、と役員らは頭を悩ませており、住民に見てもらった後、処分するという。
感慨深げの住民「どれくらい先人が運ばれたのだろう」
遺体を体育座りのような姿勢にして収めた「坐棺」という棺を輿内に入れ、祭りの神輿のように担いで墓地まで運ぶのがかつての葬送だった。
輿を収める輿堂の解体準備のため、このほど学芸員に輿を見てもらった。輿は、真鍮と銅の装飾品がついた銅板葺きの屋根で、漆塗りに蒔絵で卍と蓮が描かれており、火灯窓がある宮殿、べんがら塗りの柵と鳥居がついた台の三層構造。高さ107センチ、棺を収める宮殿は、縦横65センチ。長年、堂に入ったままだったにも関わらず、傷みは少なかった。
調査に当たった同県西宮市立郷土資料館の嘱託学芸員、西尾嘉美さんは、神仏習合の形から「明治になると、神仏分離になるので、江戸の終わりごろの物ではないか」と推察し、輿を使っていた頃の葬送の様子を住民たちに聞き取った。
住民の女性(66)は、宮大工をしていた曽祖父が造ったと祖母から聞いており、西尾さんの見立てと時期が符合した。
住民によると、同自治会の最後の土葬は1981年。その頃は現在と同じように遺体を寝かせて棺に収める寝棺に変わっており、輿はそれより前に使われていたと見られる。西野博詞自治会長(71)は、高校2年生だった昭和46年(1971)に、祖父の輿を担いだ記憶がある。
10年以上前から、輿堂の解体とともに輿の取り扱いの話が持ち上がるものの、使う物でない上に、畏れもあり、積極的に処分することはなかった。輿堂の屋根が半分ほど落ち、これ以上は放置はできないと解体を決め、輿も処分することにした。
西野自治会長は「先人が遺された民俗遺産だが、保管する場所がない。決着をつけないといけない時なのかなと思う。一体どれだけの先人が、輿で運ばれたのだろう」と感じ入っていた。