明智光秀の「丹波攻め」で、光秀を退却に追い込んだ赤井(荻野)悪右衛門直正。直正の弟で、三尾城主・赤井幸家の内室(妻)のものと伝わる墓碑が兵庫県丹波市春日町鹿場にあり、このほど地元の矢持輝男さん(78)が、墓碑のそばに内室の墓であることを示す石碑を寄進した。知る人ぞ知る墓碑だが、矢持さんは「内室には引き続き、安らかな眠りについてほしい。地域の幸せを見守ってもらえれば」と話している。
天正年間、織田信長の命を受けた光秀が、丹波国平定戦「丹波攻め」を繰り広げた。同3年、丹波国に覇を唱えていた「丹波の赤鬼」の異名を持つ直正との戦いでは、直正が光秀軍を挟み撃ちにする戦法「赤井の呼び込み戦法」を展開し、光秀は敗走。この作戦は、同県丹波篠山市の八上城主・波多野秀治が赤井方に寝返ったことに起因するともいわれ、直正と秀治との間にかねてからの密約があった可能性もあるという。光秀は同6年、再び黒井城を攻め、直正を病で失っていた赤井方は敗れ、黒井城は落城した。
寄進した石碑は高さ50センチほどで、「三尾城主 赤井幸家内室之墓碑」と刻まれている。墓碑は薬師堂の敷地内にあり、鹿場自治会の下地地区が管理している。毎月の当番を決め、薬師堂などを含めてお供えをしたり、清掃をしたりしている。
矢持さんによると、かつて矢持さん宅辺りに「円(延)福寺」という寺院があり、幸家の祈願所だったとされ、内室の住まいも近くにあったと伝わっているという。
内室の墓碑は矢持さん宅近くにあったとされ、戦後に現在地に移されたという。
矢持さんは以前、墓碑を見学に来た人から「内室の墓と教えてもらわないと分からない」という旨の苦言を呈され、心を痛めていた。同地区の世話役「配当長」を務める矢持靖弘さん(73)に相談を持ち掛け、石碑を寄進した。
靖弘さんは「立派な石碑を建立していただいた。内室のことが後世に伝承していけることを大変うれしく思う」と喜んでいる。