「乱」で自立化した国衆 京に近く否応なく巻き込まれ 【丹波の戦国武家を探る】(1)

2020.09.09
歴史

氷上郡(丹波市)の中世武家と山城

この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。

兵庫県と京都府にまたがる旧丹波国は京の都に近いことから、都で争乱が起こると否応なく巻き込まれざるをえない土地柄であった。「元弘の乱」において足利尊氏が口丹波の篠村八幡宮で倒幕の旗上げをすると、「太平記」によれば丹波国の住人久下弥三郎時重が真先に馳せ参じ、旗の文、笠符には「一番」の文字が書かれていた。そのほか、長澤・志宇知・山内・葦田・余田・酒井・波々伯部らの丹波武士が馳せ参じたと記されている。かれらは当時において名のある武家たちであった。

続く南北朝の内乱期、丹波守護職は仁木氏、山名氏らが補任され、その間、「観応の擾乱」、「明徳の乱」と続いた争乱に際して丹波武士は守護に随って戦場を駆けた。

南北朝の統一がなった十五世紀の末、室町幕府管領を務める細川京兆家が守護職に任じられ、以後、丹波国は細川氏の守護領国となった。

八代将軍・足利義政の時代、幕府の実権は管領・細川勝元、四職の一人、山名持豊らに握られた。そして、将軍家、守護大名家の家督争いが原因となってこの両者が対立、応仁元年(1467)、両畠山氏の武力衝突が引き金となって「応仁の乱」が勃発した。

多紀郡(丹波篠山市)の中世武家と山城

応仁の乱のころに成立したという中世武家の家紋を知る根本史料『見聞諸家紋』には、丹波守護代の内藤氏、氷上郡(現・兵庫県丹波市)の久下氏・蘆田氏、多紀郡(現・同県丹波篠山市)の中澤氏・波々伯部氏ら細川勝元に属した丹波武士たちの名字と幕紋が収録されている。

応仁の乱が終息したのち、世の中は戦国乱世へと推移していった。畿内・近国では管領・細川政元が幕政を牛耳ったが、後継問題から家中に亀裂を生じさせ、ついには暗殺される事態を招いた。

以後、細川京兆家は家督をめぐる「両細川氏の乱」に揺れ、丹波武士たちは自らの生き残りをかけて乱に身を処した。この両細川氏の乱は丹波国衆の自立化を促し、船井郡(京都府)の八木城主・内藤氏、多紀郡の八上城主・波多野氏、氷上郡の後屋城主・赤井氏らが勢力を拡大、それぞれの立場で覇を競うようになった。

やがて永禄十一年(1568)、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、丹波武士たちは信長、義昭と友好関係を結んだ。ところが、天正元年(1573)、義昭が信長に京から追われると、荻野・赤井氏、内藤氏らが信長から離反、天正三年、信長は明智光秀に命じて丹波に兵を進めた。かくて、丹波の中世は終焉を迎えることになった。

田中豊茂(たなか・とよしげ) ウェブサイト「家紋World」主宰。日本家紋研究会理事。著書に「信濃中世武家伝」(信濃毎日新聞社刊)。ボランティアガイドや家紋講座の講師などを務め、中世史のおもしろさを伝える活動に取り組んでいる。

関連記事