14日に97歳で亡くなった、京都大学名誉教授で、世界的に知られる霊長類学者の河合雅雄さん。サル研究の世界的権威であり、出身地の兵庫県丹波地域の美しい自然を愛し続けた。その行動力と思想は、県政や市政、また市民の活動にも大きな「栄養」を与え続けた。訃報に触れ、関係者からは惜しむ声や感謝の声が上がる。それぞれの思い出の中に、愛され続けた「河合先生」が浮かび上がる。
「丹波の森構想」動物いてこそ森
河合さんと丹波地域の関わりを語る上で欠かせないのが、「丹波の森構想」。丹波地域を「丹波の森」とし、森林文化を基調とした緑の文化地域をつくるというものだ。
同県立人と自然の博物館2代目館長で、初代丹波の森公苑(同県丹波市)の公苑長だった河合さんの後を継いで2代目公苑長を務めた中瀬勲さん(73)は、「丹波の森公苑や丹波の森構想などをつくる上での精神的支柱だった。先生の個人的ネットワークがすごく、ひと声かければさまざまな分野の有名な専門家を丹波に招待することができ、人望の厚い方だった」と話す。
また、「現場を体験することを大切にされていた。人と自然の博物館で実施していたボルネオジャングル体験スクールは子どもたちに大きな夢を与えた。丹波地域のあちこちにハイキングコースをつくり、丹波の森を体感してもらいたいと常々おっしゃっていた」と振り返った。
河合さんは1996年の丹波の森公苑開苑時にはオオムサラキの餌になるエノキとクヌギ計700本を植え、国蝶の復活にも尽力した。発足当初の2011年から名誉会長を務めた「兵庫丹波オオムサラキの会」の足立隆昭会長(82)は、「日本人は森の概念について木だけを想像するが、動物や昆虫などがいてこその森だということをいつも言われていた。オオムラサキを通して河合先生の森(里山)の概念を広めたい」と話した。
獣害解決への思い「納得いくまで議論」
深刻度を増していた兵庫県の獣害被害を解決したいという思いは強く、07年、日本初の野生動物保護管理施設「兵庫県森林動物研究センター」(丹波市青垣町)の設立にも尽力。海外では当たり前となっていた野生動物保護管理の考え方を日本に取り入れ実行する施設の必要性を、研究員らと共に行政機関に根気強く訴え続けた。
河合さんと共にセンター設立に携わった横山真弓研究部長(53)は、「『エチオピアのような貧しい国でもワイルドライフマネジメントをやっている』とよくおっしゃられ、この分野での日本の立ち遅れを憂いておられた。サル学の世界的権威であったが、物事を決めるときは、決してごり押しで進めるのではなく、みんなが納得いくまで議論を重ねる人だった。設立に向け、河合さんの家で深夜まで議論したことは良い思い出」と振り返る。
昨年末、間もなく設立15年を迎えるセンターの方向性や取り組みを報告するため、自宅を訪ねたときのこと、「ありがとう。任せたよ」と笑顔で声を掛けてもらったのが最後となった。
「私にとって雲の上の存在だったが、ささいな相談にも応えてくださり、そのたびに気持ちが楽になる言葉を掛けてくださった。自身も大病をされ、思うように研究が進まなかった長い時代を経験されてきたからなのか、人の痛みが分かる人。いろんな立場や心情を理解し、懐がとても深い人だった。よく褒めてもくださり、その存在は私の大きな心の支えだった」と涙で声を詰まらせた。
精力的な執筆活動「賢治」に心寄せる
文筆家としても精力的に活動した河合さん。自伝的小説「少年動物誌」を原作に、三浦春馬さんが“雅雄少年”を演じた映画「森の学校」を制作した丹波篠山市大山上出身の映画監督、西垣吉春さん(74)は、「先生は5、6回ほど『森の学校』をご覧になったと思うが、『見るたびに受ける印象が違いますね』と言っていただいたことが記憶に残っている」という。
また、「知人から勧められて読んだ『少年動物誌』に感動し、映画化したいと思い、先生に初めてお出会いしたのが20年以上前のこと。以来、丹波篠山で年に4回ほどお出会いしていたが、そのたびに、先生ご夫妻の人柄に心洗われる思いがしたものです」と振り返る。
河合さんが草山万兎のペンネームで出版した「宮沢賢治の心を読む」で、表紙や挿絵を担当した銅版画家の加藤昌男さん(81)は、「偉人という感じはなく、とても気さくな方」と話す。
JR篠山口駅で初めて出会った。河合さんが賢治好きということで話しかけ、すぐに意気投合した。
「霊長類学者として、動物と人間が同じ視点に立って森羅万象が描かれる賢治の童話に引かれていたのではないか」。河合さんは、特に「水仙月の四日」が好きだったという。
市内の河合さんファン15人ほどが集う「万兎の会」では山菜採りや花見を楽しんだ。「無名の画家にもかかわらず、『挿絵をやってみないか』と声をかけてもらい、ありがたかった。寂しくなるが、『今まで本当にありがとうございました。賢治さんに会ったらよろしく』と伝えたい」と話した。
人権にも深い言葉「温かくて優しい人」
研究者、作家とは違った側面を知るのは、山中信彦さん(65)。旅行業をしていた関係で、イタリアや国内など、何度も河合さんの旅行に同行した。また、障がい者の就労支援施設などを運営するNPO法人「いぬいふくし村」を立ち上げた際には、刊行した書籍の帯を書いてもらったこともある。
「一番印象に残っているのは、『まちの品格は人権が守られているかどうかだよ。山中君はそういうふうに頑張りなさい』と言われたこと。サルの先生やのに、なんでこんな素晴らしいことが言えるのだろうかと、泣きそうになった」と話す。
また、「何度も家に行かせてもらい、先生の話を聞けるのは至福の時だった。研究者としてだけではなく、さまざまなことで丹波篠山にとって重要な方だった」としのんだ。
酒井隆明市長は、「ざっくばらんでユーモアがあり、温かく優しい方だった。天寿を全うされたのではないか」としのび、「ふるさとをこよなく愛され、貝原俊民前県知事が提唱された『丹波の森構想』に関わられるなど、人や自然、文化を大切にする丹波地域のまちづくりを進めていく上で大きく貢献いただいた。私自身、先生の考えに共鳴するところは多かった。理念や思想を受け継いでいきたい」と決意を新たにした。
酒井市長によると、愛した歌は、「僕らはみんな生きている」の歌詞で知られる「手のひらを太陽に」。
17日午前10時、市役所庁内では職員や来庁していた市民らが黙とうし、哀悼の意を示した。コロナ禍が落ち着けば、市として何らかの形で「お別れの会」を開く予定という。