「死ぬのは早いか遅いか」 15歳、”人間魚雷”要員に 戦後76年―語り継ぐ戦争の記憶

2021.08.01
地域

「回天」の中には2度、入る機会があり、狭く暗い印象が強かったと話す加納さん=2021年7月12日午前11時24分、兵庫県丹波市春日町小多利で

終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は加納昭一郎さん(91)=兵庫県丹波市春日町。

戦局が悪化の一途をたどっていた1944年(昭和19)7月、海軍飛行予科練習生(予科練)の教育航空隊「奈良海軍航空隊」(奈良県天理市)に15歳で入隊。のちに特攻兵器「回天」の搭乗員に任命された。去来した思いは「どうせ死ななあかん。早いか遅いかや」―。

同県西宮市出身。学徒動員で尼崎市にあった潜水艦のスクリューを製造する会社に勤労していた。先輩が海軍を志願したこともあり、自身も海軍を志すようになった。

入隊して1週間、人間魚雷の要員であることを伝えられた。兵である以上、死の覚悟はできていたが、鼓動が高鳴るのを感じた。「こんな自分で国の役に立てるのか」。大阪湾の水上特別攻撃隊に配属された。

空襲警報もなく、突如、米軍の艦載機「グラマン」が機銃掃射をかけてきたことがあった。近くにいた仲間が次々に撃たれ、命を落とした。自身も左胸をえぐるように撃たれ、血だるまになった。衛生兵のテントに駆け込んだが、負傷者が多く、手当てができない旨を告げられ、血止めにと歯磨き粉を渡された。

8月15日、陛下のラジオ放送があるから聞けと命令が下った。雑音で内容は全く聞き取れなかったが、部屋に戻ると兵学校の生徒がおり、「日本は負けた。ここで全員死ね」と自決を促した。短刀で死ぬことを決意したが、部屋に入って来た分隊長が「陛下のお言葉を聞かなかったのか。国の再建に尽くせと言っておられるのだ」と強い口調で生徒に詰め寄り、殴り倒した。

「命拾いをした」―。敗戦を知り、率直に感じたことだ。戦後は家族が疎開していた同県丹波市に移り、丹波新聞社の記者として地域を駆け巡った。「戦争がなかったら、とよく考える。一緒に入隊した仲間は戦死したが、戦争さえなければ楽しい人生を送っていただろう。悲劇としか言いようがない」と言い、今なお消化できない思いを抱えている。

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