「氷上郡(現兵庫県丹波市)の武士団を中心に」と題し講演がこのほど、同市で行われた。地元の氷上郷土史研究会会長、足立義昭さんが、武士の発祥から説き起こし、氷上郡内に残る名字や地名の元になっている、平安から室町時代にかけて氷上郡に来住した武士団を紹介した。要旨を掲載する。
奈良・平安時代の氷上郡は、都の皇族、貴族、寺、神社の私有農地「荘園」があり、役人(下司)の管理の下、地元の農民が耕作していた。葛野(かどの)庄が葛野村、御油(ごゆ)庄が御油村などと、当時の荘園の名前が、後の校区名や村名になった。
平安時代に入ると、京の都で増え過ぎた皇族を養うのが難しくなった。皇族で食えないので、皇籍を離脱し、臣籍に降りた。源氏、平氏は、臣籍に降りた元皇族。臣籍に降りても、宮仕えできるのは少しで、屋敷の門番や牛車の護衛などをする「さぶらう者」と呼ばれる者が出てきて、「さむらい(侍)」と呼ばれるようになった。
一方、東国では開拓した領地の奪い合いが起こり、農地や開拓地を守るため、土豪や有力農民による兵(つわもの)と呼ばれる自警団(武士)が発生した。そこに、都にいてうだつの上がらなかった人たち(臣籍に降りた元皇族の侍)が流れ込んだ。天皇家の血を引く人が来てくれたと喜ばれ、棟梁に担がれた。それが力をつけて、京に戻った。
東国の武士団が氷上郡に来たのは、源頼朝が、鎌倉幕府成立の恩賞として、京都方の荘園を与えたからだ。武士たちは、名字と地名を持って来た。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」の足立遠元の孫、足立遠政(山垣城主、足立郡から1209年に来住)が来たようなものだ。荻野(高山寺城主、相模国から1218年に来住)は、「鎌倉殿の十三人」の梶原景時の孫だ。鎌倉幕府が東国の武士を移したのには、西日本を守らせる、源義経を捕らえる目的もあった。
武士が生活のために帰農し、「名字を持った農民武士」になり、農民になった。また、戦に従軍した農民が、報酬の代わりに名字をもらった。こうして、関東武士の名字が広がった。しかし、豊臣秀吉の「兵農分離」「刀狩り令」で、農民の名字・帯刀が禁じられ、江戸幕府もそれを踏襲したので、明治まで百姓は名字を名乗れなかった。