今年で終戦から77年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は小林弘二さん(87)=兵庫県丹波篠山市郡家=。
「お兄ちゃん」たちとの思い出は、今なお色あせない。小林さんが国民学校に通っていたころ、自宅で下宿していた陸軍の将校たちと長い時間を過ごした。「みんなが優しく、子どもを大事にしてくれた」と笑みをこぼす。
丹波篠山市立町出身。2人兄弟の弟。1941年、篠山国民学校に入学した。国民学校令により、「小学校」が「国民学校」と改称された年だった。
国民の戦意が高揚していた翌42年、町役場に勤めていた父・武雄さんが、戦勝祈願で富士山を登山中に心臓まひを起こし、この世を去った。「つらかったが、多くの家の父は戦地へ赴き、戦っている。どの家でも働き手は失うものだと思っていた」と振り返る。
そんな中、町役場からの推薦で、小林家では3人の将校を受け入れることになった。当時、将校らは現・篠山産業高校そばにあった練兵場や山中で、射撃などの軍事訓練を行っていた。
小林家にやって来たのは、いずれも青年。「『こうちゃん』と呼んでかわいがってくれた。夜にはよく百人一首をして遊んだ」。父を失った悲しみを忘れられるほど、「お兄ちゃん」たちと一緒にいられる時間が楽しかった。
3人に招待され、母のあいさんと兄の大介さんとで、宝塚歌劇団の演劇を見に行ったこともある。名優・天津乙女が舞う姿は今でも目に浮かぶ。「観劇後に別室で頂いたごちそうは、浦島太郎が竜宮城で受けたもてなしかと思うぐらい、豪華なものだった」と笑う。
3人は、小林家で1年ほど下宿した後、戦地へ赴いた。その後、通信部隊の将校2人を、約2年間下宿で受け入れた。「これまた優しい方たちだった」
母は、屏風や壺、着物などの「家宝」を売り、食い扶持を得ていた。一家の大黒柱だった父がいなくなり、戦局の悪化とともに生活は苦しくなったが、将校たちには毎晩ごちそうを用意した。一方、自分たちは質素な献立。小林さんは「兵隊さんのため、僕らが我慢しないと。いつか日本が盛り返すはず」という思いだった。「それ以上に兵隊さんがいることが誇らしかった」
5人のうち4人は戦地から帰国を果たしたが、うち1人はビルマ(現ミャンマー)で戦死した。一番に相手に立ち向かっていきながら銃撃された場面を目の当たりにした隊員から直接、戦死の事実を伝えられた。「悲しかった。一番優しい人だった」と惜しむ。
終戦後、「子どもが好き」という小林さんは教師として約40年間、教壇に立ち続けた。「心のどこかで、幼いころの自分を大事にしてくれた兵隊さんにお返しをしたい、という気持ちもあったのかも」と話す。
通信部隊の2人は、足しげく篠山へ足を運んでくれた。年賀状のやり取りも続いた。一人は横浜出身で、退職後には中華街で一緒に食事したこともあった。
「日本の兵隊さんは勇敢で強く、優しい人ばかり。命がけで日本を守っていてくれたからこそ、今の平和がある。日本人であることが誇り。感謝の気持ちを持ちながら、生きている」