一昨年5月に逝去したサル学の世界的権威、河合雅雄さんの妻、良子さん(93)=兵庫県丹波篠山市=のお話会「サル博士とともに65年」がこのほど、中央図書館で開かれた。市内外から約50人が参加。雅雄さんの活躍を陰で支えた良子さんの裏話や、時にユーモアあふれる語りに聞き入っていた。ささやま図書館友の会の主催で、昨年から開催している「河合雅雄先生を偲んで」の第3弾。主な内容は次の通り。
河合が(愛知県犬山市の)日本モンキーセンター建設に携わることになり、付いていった先には、ただ大根畑が広がっていた。何の期待もなく、悲哀を感じたが、何でも事の始まりはそうなのかもしれない。
京都大学霊長類研究所を立ち上げた際には、多くの学生が泊まりに来た。実家の母がたくあんや白菜の漬物、米も送ってくれて、助けてくれた。本当にいろんな人を接待した。経済界の偉い人なんかも。私は民宿のおばさんのようだった。パッチのひもが切れたというから直したこともある。私は働くというよりフォローするという感覚だった。
ゴリラが売りに出ているので、どうしても欲しいとなった。1頭3000―4000万円だったと思う。名鉄(名古屋鉄道)が、資金援助する代わりに観光事業に協力してほしいと。木曽川を流れる船からサルが見られるように研究者が協力した。研究者たちの喜々とした姿が忘れられない。
マウンテンゴリラのつがいが到着した。ゴリラが来ると「地響きがする」と話していたのに石炭箱が2つ。サルの大きいのくらいだった。衰弱し、毛も抜けていた。「かゆを炊け」と言われたものの、どのようにして食べさせるかが問題になり、かゆが焦げ付くほど時間がたっても話がまとまらず、竹の筒で口元まで持っていった。その後、獣医さんに結核にかかっていると診断された。7日ほどすると、偉そうに歩くようになったが、間もなく、自分の古里の方向を見ながら2匹とも土に返った。今も剥製がセンターにある。立ち寄られたときには語りかけてやって。
河合が間接的に教えてくれたのは、死に対する心構えかもしれない。自然との一体感があれば、死に対する考えも穏やかになる。「世話になったな」「元気でな」とかは一言も言わずに逝ってしまった。われわれも死んだとは思えず、今も書斎にいるような気がする。死に対し、泣くとかではなく、理論的に考えられるようになった。
そう思えるようになるには、小さい時から自然と付き合うことが大切で、「子どもたちの自然を取り返せ」「大人が子どもの自然を取ったらあかん」と話していた。わなをかけて捕った動物が、一生が終わると感じたとき、自分がすんでいた森の方をじっと見るという。そんなことも子どもたちにいっぱい話して聞かせたかったみたいだ。