かつて「当野」に温泉場 鉄道開通当て込み開発 鉱山跡の「赤い水」利用

2023.07.26
地域歴史注目

温泉屋敷があったことを今に伝えるこけむした石垣=兵庫県丹波篠山市当野で

■物語をもとに栄枯盛衰に迫る

兵庫県丹波篠山市の南西部に位置する集落、当野に、かつて温泉があったことを知る者は少ない。今から130年ほど前の明治時代、村内の鉱山跡から湧き出る「赤い水」を利用し、「鉱山温泉」と名付けられた温泉場が開業した。近郊から大勢やって来て活況に沸いたという。温泉開発の背景には、村の中を鉄道が走り、駅も造られるという、うわさがあった。村の若者数人が村おこしのチャンスとばかりに私費を投じて温泉開発に乗り出した。しかし、当てにしていた鉄道敷設は実現せず。温泉場はそれ以上に盛り上がることはなかった。どれだけ繁盛し、いつまで続いたのか、正確な記録は残っていないが、今でも雑木林の中に、温泉屋敷跡のこけむした石垣だけがひっそりとたたずみ、往時の面影を残している。郷土史家の上田和夫さん(94)が、これらの歴史をひもとき、史実に基づいて執筆した小説「当野温泉物語」をもとに鉱山温泉の栄枯盛衰に迫った。

温泉開業の前祝に、芸者も呼んでどんちゃん騒ぎの大宴会をひらいたとされる地蔵尊前の広場

■「駅もできる」と前祝いで大宴会

1893年(明治26)2月、当野村は鉄道が通ることへの期待に沸き立っていた。計画では、藍本から古森、当野、真南条を経て篠山を通り、宮田から柏原へ出ることになっていた。敷設に伴い、当野集落の北端、現在、国道372号と武庫川が合流する「舟瀬」に駅もできるとうわさされた。

集落東側の、現在、舞鶴若狭自動車道が走るそばの山中に、赤い水が湧き出している鉱山跡の洞窟があった。その存在は、明治5、6年には知られていたが、いつ頃、何を採掘するために掘られ、いつまで鉱山経営が続いたのかは記録に残っていない。

当野に鉄道が通る話は、正式には決定していなかったが、この赤い水を源泉とした温泉開発の出資者となった村の若者5人は、温泉屋敷建設予定地そばの地蔵尊前の広場に、村長や村会議員らも含めた計20人ほどを集め、温泉の宣伝も兼ねた景気づけの前祝いとして、芸者も呼んでどんちゃん騒ぎの大宴会を開いたという。

鉱山温泉の源泉ではないが、そのそばにあり、今も「赤い水」が湧く鉱山跡の洞窟

■明治26年8月31日、男女混浴で開業

温泉屋敷は、源泉から約90メートル離れた草刈り場になっている台地を村から借りて建設。約650平方メートル切り拓き、その周りに高さ1・5メートルほどの石垣を組み上げた。同所は篠山城築城に使った石を切り出した場所で、石材は豊富にあった。鉱山跡から竹を15、16本連結して赤い水を引いた。

93年7月26日、棟上げ。上棟祝いに地蔵尊前の広場に村人全員(200人程度)を招待し、飲めや食えやの宴でにぎわった。

「赤い水」と記載があるが、鉱山跡の洞窟から湧き出たときは無色透明の冷泉。特異の臭味はなく、流出地一帯が赤褐色に沈殿沈着していたことに由来する。沸かすとタオルが赤褐色に染まるほど濁ったという。

赤い水の成分調査は神戸の県立病院で行われ、「温泉法に規定する物質を含有せることを証する」とお墨付きが出た。

同年8月31日に鉱山温泉開業。畳3畳ほどのヒノキの浴槽を備え、男女混浴の立派な大浴場が開かれた。開業式には300人前の折詰を用意。次々にやって来る招待客をさばくのに大わらわの一日だったという。

こうして、当野の村おこし事業「鉱山温泉」はスタート。滑り出しは上々で、近郊近在から大勢の人が訪れた。早速、手狭となり、同年9月20日から客室の増築に着手。翌年2月に、4畳半2間の2階建ての客室が完成した。

経営は軌道に乗ったかのように思われたが、ここに来て大きな誤算が生じた。鉄道会社が、線路を隣村の古市に通すことを決めたのだった。当て込んでいた「当野に鉄道が通り、舟瀬に駅ができる」ことは夢物語に終わった。

温泉物語の舞台「当野」の集落を天狗岩から望む。左端の道路は舞鶴若狭道=兵庫県丹波篠山市当野で

■廃れた温泉場、最後は博打場に

ほどなくして日清戦争(明治27―28年)が勃発し、日露戦争(同37―38年)を経て、富国強兵をひた走る日本は、鉄道網を整備。流通経済が発達したことで、これまで稲作の肥料としていた堆肥や山草、草木灰が、北海道のニシンやタラなどの〆粕、満州からの大豆粕に取って代わられた。それまでの山草を肥料とするための草刈りは重労働のため、手っ取り早い購入肥料に依存するようになった。その結果、もともと草刈り場だった温泉場の周囲は、植林されたり、雑木が生い茂ったりし、見晴らしの良かった温泉場は、次第に人里離れた山奥のような雰囲気になってしまった。

そもそも源泉の鉱山跡からの湧水量が大規模な温泉場を賄えるほどではなく、それほどの資本投下もされなかったことから、当初の意気込みほどの村おこしにはつながらなかった。

鉱山温泉はすっかりさびれてしまったが、同温泉の麓にある徳円寺の門前に暮らしていた出資者の一人が自宅を改築し、赤い水で風呂を沸かし、同寺へ泊りがけで参拝する人の宿屋を営んでいたという。

一方、山の中の鉱山温泉がいつまで営業していたかは定かではないが、最後には博打場となってしまったため、警察ににらまれ閉鎖されたという。

■昭和時代にも「赤い水」利用

昭和時代にも25年間ほど鉱山跡の赤い水を利用して温泉を提供していた時期があった。

徳円寺の住職、満仲諦雅さん(86)によると、1962年(昭和37)、同寺の檀家らが資金を出し合い、檀信徒らが参拝の際に泊まれたり、地域住民が法要の後にくつろげたりする施設「あみだ寮」を寄進。その際、鉱山温泉の冷泉を引き込み、温泉施設を設けた。コンクリートブロックを積み上げた2階建てで、2階部分だけでも8畳、6畳、4畳半の計8部屋ある建物だった。

大人8人ほどが入浴できる扇形の風呂は人気を呼び、檀信徒や地域住民のほかにも、町外の子ども会や、都市部の大学・短大がサークルの夏期合宿として利用するなどしたという。

本堂と庫裡を建て直す工事に入る前の87(昭和62)年8月まで営業していた。

赤い水が湧き出た鉱山跡の洞窟は、96年(平成8)8月に発生した未曽有の集中豪雨により土砂に埋もれ、いまやその明確な場所も分からなくなってしまった。屋敷跡も流出し、石垣を残すのみとなった。

平成8年の集中豪雨の土砂崩れで埋まってしまった源泉跡

■夢に懸けた明治の男たちに拍手

生まれも育ちも当野という進戸納さん(64)によると、鉱山跡の洞窟は山腹に3カ所あり、源泉としていた洞窟ともう一つは土砂に埋まってしまったが、最も上にある洞窟は今も健在。「これらの洞窟は、幼い頃の遊び場だった。上級生がいかだを作り、赤い水の上に浮かべて探検ごっこをしたのは良い思い出」と懐かしんだ。

上田さんは、「古ぼけた書き付けに書かれていたのは創作以上にドラマチックな人間模様だった。強く心を動かされ、鉱山温泉調査のため、何度も当野の村に通った」と振り返り、「現在のように行政の補助事業に乗せようなどと他人のふんどしを当てにせず、私財を投じて夢に懸けた明治の男たちに拍手を送りたい。現代人がどこかに置き忘れてきた大切なものを、そっと教えてくれるようなこの歴史の一こまに限りない愛着を覚えて、この史実を誰かに聞いてほしくなり、小説として再現した」と話している。

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