頭上に銃、水中に身隠す 南方戦線から生還した父 戦後78年―語り継ぐ戦争の記憶②

2023.08.14
地域

軍服を着た一夫さんの写真と、大切にしていたという軍隊手帳。部隊の書記による記録で、小さな文字でびっしりと埋められている

今年で終戦から78年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は松浪陽一さん(73)=兵庫県丹波市山南町北和田=。

「あんたとこのお父さん、兵隊で苦労しとってんや」

大正6年(1917)生まれで、11年前に亡くなった故・松浪一夫さんについて、息子の陽一さんは地域の人からよくこう言われたという。

戦地でのむごたらしい体験を直接聞いたことはないが、戦後20年以上たっても全国から戦友が訪ねてきていたといい、「命がけで一緒に戦った戦友は、親きょうだいよりも強い絆だったんでしょう」と推測する。

軍隊手帳によれば、一夫さんは昭和14年(1939)8月、同県丹波篠山市郡家にあった歩兵第70連隊留守隊に召集。12月に歩兵第170連隊交代要員として屯営を出発、中国・広州市での警備勤務などに従事し、昭和15年(1940)に支那事変従軍記章を授与されている。

松浪陽一さん

文字が読みづらい部分があるが、昭和17年(1942)11月に南太平洋のニューブリテン島ラバウル、その後ニューギニア島に入り、昭和18年(1943)5月に同島のラエで警備勤務に就いている。同年6月、同島のフィンシュハーフェンで警備勤務などにあたり、11月にフィンシュハーフェンを出発したとある。同年12月にラバウル着、昭和19年(1944)1月に宇品港上陸、和歌山着、同月25日に「召集解除」で履歴が終わっている。

史実と照らし合わせると、ラバウル、ラエ、フィンシュハーフェンは、いずれも日本軍と連合軍の激しい戦闘が繰り広げられた場所。一夫さんがいた頃とも一致するところがあり、想像を絶するような体験をしたと推測される。

「ニューギニアのジャングルで、部隊が全滅したと思われたのか、消息不明扱いとなり、捜索も打ち切りになった中、たまたま別の部隊に発見されたようです」と陽一さん。昼間は、水の中に首まで浸かって頭上に銃をあげてじっと潜み、夜になると陸地に上がって進んだといい、「部隊の連隊旗は何があっても持っていないといけないものだったが、荷物を最小限にするために捨てたと聞きました」と話す。

戦地に行くたびに遺書を書き、「とても生きては帰れないと思っていた」と話していた。葉っぱにお札を巻いて、たばこ代わりに気休めに吸っていたという。「野営当番は、慣れたら目を開けたまま寝られる」と話していたそうだ。

南方戦線から時間はさかのぼるが、一夫さんは小学校卒業後、尼崎へ丁稚奉公に出て、木箱を制作する会社で5年間働いた。その時の会社の専務が、入隊した連隊の部隊長で、「他の部隊の兵隊のように、どつかれたことは一度もない。かわいがってもらった」と話していたという。部隊長付きの世話係として、長靴や軍刀を磨いたり、洗濯をしたりしていたそうだ。

もともと器用な人だったが、この時の経験からか、おかずを炊くのも縫い物も上手だったという。また、寒い冬の田んぼの仕事では、竹を割って上手に火を着けていたといい、陽一さんは「ジャングルで学んだのかもしれない」と話す。

陽一さんは父の写真を見ながら、「今でも、日本は何であんなあほな戦争をしたんやろ、と思う。今のロシアとウクライナもそう。戦争は百害あって一利なしやのに」と、まゆをしかめるように語った。

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